おっぱい小僧の思い出
ニンゲンの壊れ方にもいろいろとありますにゃ。
なかでも、ある種の口癖、特に語尾に特徴があるというのは、その浅薄な狙いとか人格の破綻などがよくあらわれるものですよにゃ。語尾に「にゃー」とか「だっちゃ」とか「ぴょん」とかいれていくのは人格の偏向のマンガ的表現ともいえるわけにゃんねえ。
僕もリアルで普段から語尾ににゃーにゃーつけているわけではにゃーんだけど、時々うっかりと「にゃ」がでることがある。ヒゲ面のおっさんが「にゃー」ですよ、気持ちワリイね。などと自分のような例はあるものの、リアル人格でマンガ的な語尾をつける者というのはあまり見にゃーものですにゃ*1。
僕がおっぱい小僧を知ったのは、中学生のころ、ポストスペースインベーダーブームのころですにゃ。ギャラクシアンとかが稼働していたころですにゃ。僕はムーンクレスタがお気に入りだった、ヘタだったけどにゃ。僕の友達はクレイジークライマーの達人でしたにゃ。
小学生のころは駄菓子屋の店先にあるゲームをやっていたんだけど、不良のたまり場とされていたインベーダーハウス*2に出入りするようになりましたにゃ。インベーダーハウスデビュー2〜3回目で、ムーンクレスタをやっていたとき
- 「やられた! おっぱい!」
ととなりで叫ぶ声がする。にゃんだにゃんだ!?
見ると、歯がぼろぼろの中学生*3がレバー*4をがちゃがちゃさせてブツブツ言いながらギャラクシアンをやっていますにゃ。ああ、シンナーだ。「シンナーやるくらいならシャブをやれ」とおふくろがいっていたあのシンナーだ*5。
よく聞いてみると
- 「・・・おっぱい、よけろ、おっぱい、うてうて、おっぱい、あぶない、おっぱい・・・・」
・・・うーにゃー
どうやら内的世界と外的世界の区別がアヤシイお人のようですにゃ。思ったことはすべてそのまま口にしてしまうというすごく他者を不安にさせるタイプにゃんね。
いや、それはともかく
なぜいちいち語尾に「おっぱい」とつくのか?
どうやら有名らしい。いつでも語尾に「おっぱい」をつけるこのシンナー味噌っ歯中学生は知られていたようなのですにゃ。僕と中学がちがっていたから知らなかったのだけど。
おっぱいがいろいろと特別なのは僕にもよーくわかりますにゃ。
おっぱいは偉いよにゃ。
「美しいものが実用的であることはすくなく、実用的なものは概して美しくない
しかし、美しく実用的なものを私はひとつ知っている。女性の乳房である」
とスピロヘータが脳にまわったころのニーチェはどっか*6で言っていますにゃ。
そうにゃんね、おっぱいは偉い。
偉いんだけど、語尾につけられると不安なものですにゃ。
この不安というのは普遍性があるらしかったにゃ。特に、ゲームでミスると
- 「おっぱい! やられた! おっぱい!」
と絶叫するのは、わかっていても、否、わかっているからこそドキッとするものでしたにゃ。ヒッチコックの手法にゃんな。
だから、
「てめー、うるせえんだよ。ちょっと来いやあ」
とトイレに連れ込まれたりしたんだよにゃ。あとでトイレに行ってみると、殴られて顔を腫らし、岳陽楼に登った杜甫のように涙と鼻水を垂れ流しつつ*7、
- 「・・・おっぱい・・・いたい・・・おっぱい・・」
とすすりなく味噌っ歯坊主刈りがいましたにゃ。
もちろん、そんなことでこの おっぱい小僧 の語尾がなくなるということはなかったのですけれどにゃ。
土曜の午後、坊主刈り中学生が5〜6人、商店街を自転車で流していましたにゃ。
と、1人が遅れているようにゃんね。
- 「田中*8、おっぱい。まってー、おっぱい。おっぱーい」
白昼の商店街でおっぱいおっぱいと絶叫ですにゃ。幼児をつれたお母さんが、ガキを庇うように引き寄せていましたにゃ。
その後も何度かおっぱい小僧を見たけれど、高校を卒業したころからは見た憶えがにゃー。もう20年もたっているけど、実に鮮明な記憶ですにゃ。
生きてるかにゃー。
おっぱい小僧はフィクションではにゃーです。こんな人物を創造する力は僕にはございませんにゃー。
それにしても
考えてみれば「おっぱい」でよかったかもしれにゃー。
「おまんこ」だったらその聞くほうの不安感は「おっぱい」の比ではにゃーからね。
猟銃で撃ち殺されていたかもしれにゃー。