聖書逐語解釈というシロモノ

さて、アメリカ人的なるもの - 地下生活者の手遊びのつづき。
ご存知のお方は多いと思うけど、生きとし生けるものは聖書に書いてあるとおりに神が創造したというのは自然科学的な事実だという、創造科学とかいう馬鹿一派がメリケンで発生しておりますにゃ。おおまかなところはhttp://members.jcom.home.ne.jp/natrom/をみてもらえばわかるし、その動向を詳しく知りたければ忘却からの帰還がいいと思いますにゃ。

世界最大のキリスト教教会であるカトリックが教義上も進化論を否定してにゃーのは、聖書の文言を象徴体系にのっけて解釈することが是とされているからだと思いますにゃ。このことは、宗教共同体である教会、ひいては知的エリートである職業的聖職者の権威を教義解釈に際して尊重するということを意味していますにゃ。いじわるな言い方をすれば、教義解釈が知的エリートに任されてるのならば、科学の成果に矛盾しにゃーような解釈を提出しつづけることも可能ってことにゃんな。理性的で現実的なスタンスとも言えるでしょうけどにゃ。


ところが宗教改革はもともと教義解釈を教会が独占することに対する反発から開始したという事情があり、信者ひとりひとりが聖書を通して神と直接に対峙するというのがプロテスタントの基本にゃんな。反権威・反エリート主義的な側面があるにゃんね。この側面が徹底すると、反知性主義的なところにまでいきついてしまいかねにゃー。とはいえ同じプロテスタントとはいってもバルト神学なんかはぜんぜんちがうし、やはりメリケンならではの事情がいろいろあるのでしょうにゃ。*1、大衆文化も反知性主義だにゃ。反知性主義がいろんなレベルでまぜこぜにゃんな。

もちろん、この反知性主義は聖書の逐語解釈とえらく相性がよろしい。なにより、あらゆる文化から来た者にとって、逐語解釈はわかりやすく(つまり馬鹿向けに)フェアだしにゃ。

しかし、逐語的な解釈で宗教的文書とか神話が読めるはずがにゃー。それどころか、日常会話だって、比喩や象徴なしには意味が伝わらにゃー。「上」という空間を表すコトバに、地位や能力の優位を比喩として含意しないコトバは知られてにゃーとも聞く。比喩・象徴なしに日常会話が成り立つなら、ニンゲン様とぺらぺら会話する人工知能が実用レベルでとっくにできてるんでにゃーのか?

以前のエントリで「連続的な自然を相手にするにあたって、僕たちのもつコトバはぜんぜん足りにゃー」といったけれども、単語の数が不足しているのは何も自然を相手にした時に限った話ではにゃー。相手が自然であろうが自分の感情であろうが、事象が千変万化に生ずることに対して、僕たちのコトバは圧倒的に足りにゃーんだ。
だから、文脈を考慮し、比喩を用い、象徴に託して、ようやくコトバに陰翳と彩りを与えていく。文法と単語の意味だけで言語表現が成立することはほとんどにゃー。
*2

日常会話においてすら完全な逐語解釈で意味を追うのがほぼ不可能なんだから、もともと「曰く言い難い何ものか」を表すために書かれた宗教的な文書、神話、聖典の完全な逐語解釈なんて真似ができるはずもにゃー。こんなことは白痴の所業にして中二病の勇気だにゃ。自然言語を使う以上、どこかに比喩的な解釈が入らざるをえにゃーんだよ。それどころか、伝統的な象徴体系を拒絶しているがゆえに、かえってトンデモな恣意的解釈が知らず知らず入り込んでしまう危険があるはずだにゃ。逐語解釈ってのは、態度として一貫することが不可能なシロモノ、うすっぺらな公正とごたまぜの反知性主義から生まれた奇形なのさ。

創造科学ってのはメリケン生まれにゃんが、このごろはロシアまで含めたヨーロッパやイスラム圏にも感染しつつあるようですにゃ。忘却からの帰還「欧州評議会の「創造論とIDの危険性についての決議」の再始動」などを参照。これは欧州においても教義解釈における「大衆の反逆」、教義における民主主義がなされているっちゅうことなんだろうにゃ。


以下蛇足
さて、反知性主義・フェア・メリケンとくると、僕にはマニュアル主義が連想されるにゃんね。あの国は、単純労働者や感情労働者の出身階層ほど世界中から来ているので、その仕事は徹底してマニュアル化されているそうですにゃ。
もちろん、マニュアルとは逐語的に読むべきものにゃんね。
聖書逐語解釈って、聖書をマニュアルにみたてる罰当たりに感じられて仕方がにゃー。キリスト教を愚弄してるんでにゃーのか?

*1:メリケンにおける反知性主義というのは「ヨーロッパ人と同じようには考えない、ということらしい。詳しくはオッカム氏によるブログ、研究生活の覚書「デモクラシーを愛す」を参照

*2:確かに単語は足りないのだけれど、いったん発話されてしまうと、それは必ず何らかの文脈にのることになり、さまざまな意味解釈が過剰に付与されることにもつながる。つまり、単語が足りないから発話が過剰になる。とかいうことをどっかでフーコーが言ってたような。