敵は「自然」


俺定義でおこたえします - 地下生活者の手遊びのコメ欄でやりとりしていて、思ったことを簡単に。


事実と価値(当為)を分離せよ、「である」と「べき」は違う、ザインとゾルレンを区別せよ、
などといわれますにゃ。実に広く有用な区別ですにゃ。特に、倫理・道徳や法(規範)を考えるとき、疑似科学のことを考えるとき、などには必須の考え方ですにゃ。
まあ、このあたりについてはみにゃさまもおわかりのことと思われますにゃ。


ところで、【自然】というのは、事実なのだろうか? それとも価値?


事実と価値の分離に意識的な論者は、あまり「〜は自然だ」という言い方はしにゃーと思う。「〜は一般的な傾向としてある」などという言い方をするのではにゃーかな。


日本語で、「〜は自然だよ」というとき、「ものごとが本来あるとおり(大辞泉)」という意味で使いますにゃ。英語においても、It is natural that 〜 と書くときには、that節には「感情のshould」をいれろと文法書に書いてありますにゃ。もちろん、この「感情のshould」と「義務・当然のshould」は隔絶したものではにゃーですね。


【自然】というコトバは、自然科学の対象としての、価値判断を含まない事実という意味にも使えるけど、「当然そうあるべき」という価値判断をあらわすコトバとしても使えるわけですにゃ。


で、これはネットで議論してきたうえでの、僕の個人的体験に基づく判断なのだけれど、「〜は自然だ」という言い方を好むヒトというのは、意識的あるいは無意識的に、

  • 事実を語るように擬装しつつ価値を語っている

ということが多いのではにゃーだろうか。
で、つっこまれると「事実について語っているだけです」と言い訳すると。


あるいは
【自然】というコトバは「本来的な性質・本質」も意味するので、社会環境や教育を軽視する立場の論者が好むという認識ももっていますにゃ。


なににしろ、格差や差別を是認する立場の論者が、事実と価値の混同、あるいは本質主義的な主張をする際に、【自然】がよくつかわれるのではにゃーかと考えますにゃ。個にゃん的には「自然とか言い出す奴は敵」で、あまりはずれがにゃーと感じていますにゃ。
「〜は自然だ」という言い方にはみにゃさまもご注意のほどを。


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なんかもご参照のほどを。