そもそも君らに個性などない


皿の上のリンゴ - 地下生活者の手遊びで紹介した非常勤の美術講師と茶飲み話をしましたにゃ。彼によると、「ある種の【囚われた】タイプがどうも最近増えてきたのではないか」というのですにゃ。
「その、ある種の【囚われた】タイプってどういうのなのかにゃ?」
「他人と同じことをやりたくない、というやつ」
「そういうの、昔からいただろにゃ?」
「増えてるし、かたくなになっている」


音楽もそうなんだろうけど、美術についても実は「理系」といっていい部分が結構ありますにゃ。遠近法とか色彩理論とかいうプロとしては身につけなければ話にならにゃー理屈はほとんど理系的なアタマの使い方を必要とするし、デッサンの構図には「正解」といっていいものがありますにゃ。このあたりの基礎理論とか「正解」をシカトして、とにかく「他人と違ったこと」をやりたがるんだそうな。


「具体的に言うと、どんなふうなのかにゃ?」
「トマトを1つ、モチーフに渡したら、わざわざ「ヘタ」のところを描かない」
「へ?」
「トマトをわざわざひっくり返して描こうとする」
「そんなもん、白黒写真で撮ってもトマトとわかりにくいよにゃ」
「うん、しかも下手なので常人には何が描いてあるか理解不能
「下手のヘタぬき」
「あいかわらずつまらんな」


「最近の若いものは・・・・」とか言い始めるのは知性の退行と感性の硬直化を示していることはこの美術講師もわかっているのだけれど、どうしてもこういうタイプが最近増えているとしか思えにゃーとのこと。


で、なんでこういうのが増えているかという理由なんだけれど、例の「ゆとり」というよりも、「個性重視・個性賛美」なのではにゃーかという話になりましたにゃ。
「自分にはデフォルトで個性があると思っちゃっているんだね。アーティストにしろデザイナーにしろ、美術を志す者にとっては個性というのは獲得目標のはずなのだが、最初から自分に個性があるなどという戯れ言をガキのころから吹き込まれている」
「生まれつきそれぞれが持っている違いというのは、個性ではなくて【個体差】にすぎない。個体差は卑下するものでも称揚するものでもないはず。」
「個性というものは目標としてあるもの。もちろん、個性は個体差を生かしたものになるだろうことはわかる。しかし、生の資質を個性とはいわない。個性と個体差の違いがわからないのは文化とはいわない。」


どっかで読んだもので出典を明らかにできにゃーんだけど、教室で教えている俳句の先生が言っていたことなんだけど
「シロウトに自転車を題材にした俳句をつくらせると、ほとんどの人が【ペダル踏む】というフレーズをいれてくる」そうなのですにゃ。美術においてもそういうことはあるらしい。間違いほど類型的なのだそうですにゃ。


まあ、疑似科学歴史修正主義においても、馬鹿ほど類型的、ってのは真理だしにゃ。


そういえば、ユング心理学においても、個性化individuationがニンゲンにとっての最終的な課題であると説かれていますにゃ。


「個性などというものが自分にあると思っているから、それを出すのが芸術だと思っている。基礎訓練をしようとしない。基礎訓練の重要さを説くと、「感性」だとか言い出す。どうやら、他人と比べられたくないという心理も個性という言葉が正当化してしまうらしい。個性重視というのは、少なくとも芸術系の科目にとっては害ばかりだな。」
「そういうガキになんていってやればいいかにゃ?」
2人で考えたのが以下

  • 感性とか言っていいのは、感性の鋭い奴だけ
  • 他人と同じことができるようになってから、他人と違うことをすると言え
  • そんなに他人と比べられたくないのか?
  • そもそも君らに個性などない


「言ってやれよ、ガキのためだぜ」
「俺も言ってみてえよ。でも、最近のこどもは本当に脆いんだ」