差別する側としての公権力(追記アリ

差別は人権侵害の「事実」か?


差別は、人権侵害の「事実」であって、「意識」や「心理」を差別と決め付けることは大きな間違い。
市民を差別者扱いし、差別意識心理的差別を問題にする人権教育・啓発はやめること。


http://tonaki.blog.shinobi.jp/Entry/272/


引用したのは共産党市議のブログですにゃ。神戸において市内の学校に被差別部落民差別と思われる差別落書きがあったことへの対応についての記事。日本共産党部落解放同盟がながらくケンカをしてきたことは知っていますにゃ。また、唯物史観共産党としては、意識や心理の問題を重視する立場はとりにくいというのもわからなくはにゃー。
とはいえ、これはヒデエ。
「差別は、人権侵害の「事実」であって、「意識」や「心理」を差別と決め付けることは大きな間違い。」って、何だこれ?


前回エントリの結論部において、差別とは権力作用によるものだと書きましたにゃ。「人びとの関係性から導かれるものであり、だれもがそれに加担しうる」権力、レールから逸脱した者を不当に排除しつつ自らの正当性と合理性を吹聴する権力にゃんね。これは、意識とか心理が大きな問題となるシロモノですにゃ。
というか、
意識とか心理を問題としにゃーのなら、差別というコトバを使う必要すらにゃーのではにゃーだろうか? 個別の事実だけを問題にするのであれば、就職における不平等とか、何もしていないのに殴られたとか、不当逮捕されたとか、そういう個別的で具体的な人権侵害の事実だけを問題にしていればいいのだにゃ。個別的で具体的な人権侵害を、ひとつひとつ事後救済する【だけ】でいいわけだにゃ。意識や心理を問題としにゃーということはそういうことであり、ならばこの市議のいうとおり、「落書きを差別事象として扱うことは、差別の実態を歪める」ものとなりますにゃ。よって差別落書きもヘイトスピーチも差別ではなくなるにゃ。
つまり、これは差別というコトバなんてなくてもよい枠組みなのですにゃ。
「市民を差別者扱いし、差別意識心理的差別を問題にする人権教育・啓発はやめること。」
という言明は、差別が社会意識に多くを負うものであることをはなっから拒絶しているわけだにゃ。


この市議独自の見解か、日本共産党の公式見解か知らにゃーが、これはもう差別という概念をつかって考えることを拒絶しているといってよいのではにゃーだろうか?*1

差別と具体的な被害

ところで、何度か書いてあるレイプ被害者の泣き寝入り、暗数の理路が誤解されているようだにゃ。5/29日エントリのコメント欄でもid:NaokiTakahashiがまるでわかってくれにゃー。


例えば、5/29のエントリに以下のブクマコメがついていますにゃ

id:takanorikido
久々に陛下来ないかな。/私はこの百年一日の問題にはこれ→以上に付け加えることを持たない。http://tkido.com/blog/587.html


リンク先を引用してみましょうにゃ。


マッキノンや他の人達に動かされて、インディアナポリス市はポルノを性差別として起訴しうる反ポルノ法を制定した。(この法律は、後に、違憲と判定された。)1989年には、同趣旨の法律案が議会に提出された。あなたが性犯罪の犠牲者であり、その犯罪と、何らかの「特定ポルノ資料」の間に関連性があることをあなたが示し得るならば、受けた損害に対してその資料の制作者又は頒布者を告訴しうる権利があなたにあるとするものである。こうした法律に関する憲法問題は今はさておき、害されたら告訴できるというこの論旨は、説得力があるように見える。


 問題は、特定個人が、犯罪者によってレイプされ傷つけられたのであって、ポルノ映画によってではなかったということである。「如何なる立派な研究や証拠をもってしても、ポルノと現実の暴力の間に因果関係があることを示し得たものはない。」デンマークのある報告によれば、「ポルノが合法化されている国では、レイプや性犯罪の犯罪率は現実に低下してきた。」何らかの特定犯罪と、何らかの特定ポルノ作品との関連性を示すことは、困難又は不可能であった。


表現の自由を脅かすもの」をリンク先より孫引き


後に違憲とされたインディアナポリス市の反ポルノ法とは、まずポルノを加害者として設定し、そしてポルノの被害者をさがすというものだにゃ。ポルノの被害者をあとからつくりだすという発想になっているんだにゃ。こんなの無理スジだよにゃ。引用先にあるとおり、ポルノと性犯罪被害の因果関係を立証することなんてほぼ不可能だろうにゃ。
一連のエントリのきっかけとなった、http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090527/p1への僕の最初のコメントでも「暴力表現と犯罪が関連するかという議論に通じるよね。もし相関関係がでたとしても、因果関係を論証するのはほとんど不可能ではないかという気もする。」といっているにゃ。
これが無理スジだなんてことは僕にとっても前提だにゃ。


しかし、被害者泣き寝入り・暗数の理路というのはこんな馬鹿理屈ではにゃーんだってば。具体的な被害者が存在していなかったインディアナポリス市の反ポルノ法とちがって、この理路では最初に具体的な被害者が存在しているところから出発しているにゃ。
具体的に存在する泣き寝入り被害者の存在から出発し、泣き寝入り被害と社会的な意識との関連を指摘しているわけですにゃ。加害者はいわば権力作用だといっているわけにゃんな。
リンク先には
「それでは実害の証拠を出せとあなたは言うかも知れないが、あなたはそれがあると期待してはならない。何故なら、ポルノの実害の一つは、それが引き起こす損害を隠蔽するところにあるからである。」
ともあるけれども、僕は実害の証拠から出発しているのだにゃ。
ということを何度いっても、NaokiTakahashiは
「それを泣き寝入りした人個人への人権侵害とみなすためには、加害と被害の関係を具体的に明示できなきゃダメでしょ」
などとすさまじいことをおっしゃる。人権侵害の被害者がいれば人権侵害にきまってんだろ。インディアナポリス市の反ポルノ法には被害者がいなかったんだにゃ。


まあ、takanorikidoまでこのように読んでしまったということは、僕の書き方が悪かったのかもしれにゃー。さらにシンプルかつ一般的な論法を出してみますにゃ。


犯罪はもちろん人権侵害だよにゃ。そして、犯罪被害に遭う危険性が大きいのは、被差別マイノリティのほうであるということは、統計的に実証されているといってよい話ですにゃ。にゃるほど個々の犯罪には個々の犯人はいるでしょうにゃ。しかし、被差別マイノリティが明らかに被害に遭う確率が高いのであれば、差別意識(=権力作用)との関連を否定することはできにゃーだろう。「差別が人権を侵害する」といってもよい状況はあると考えますにゃ。
あとで述べる「スティーブン・ローレンス事件」なんてのはその典型ですにゃ。

差別という権力

ここまでの議論をまとめると、差別は権力作用であり、社会意識に多くを負うが、その最終的な抑圧の形態は個別的具体的な人権侵害としてあらわれる、ということにゃんな。
犯罪とはその多くが暴力なのであり、犯罪における加害・被害、暗数、検挙数、などなどの数字において、被差別マイノリティとマジョリティの間に明らかな差があるとすると、差別という権力作用は最終的な強制手段として暴力を行使することができるということになりますにゃ。
差別というのは社会的・経済的に制度化されているというだけでなく、暴力という強制手段ももっているあたりも権力とよぶにふさわしいにゃー。予見がムツカシイだけに公権力より性質がワリイ。

公権力のなすべきこと、スティーブン・ローレンス事件を例に

ところで、憲法だの国際人権規約だのから差別撤廃という理念が導かれるとして、公権力は何をすべきなのか?

  • 公権力そのものが差別をしてはならない

実際にそうなっているかどうかは別として、理屈としてはアタリマエにゃんな。で、この後に、私人間の差別について公権力がどう介入するか(しないか)ということになると考えられますにゃ。
では、公権力そのものが差別をしないようにするためにはどうすればよいのか。もともと公務員には憲法を遵守する義務があるから、職務上差別をしてはならにゃーことになっているから、社会意識などという厄介なものを相手にする必要はにゃーのだろうか?


ティーブン・ローレンス事件という注目すべき事件がありますにゃ。


1993年、ロンドン南西部の停留所で友人とバスを待っていた黒人少年スティーブン・ローレンス(18)は、何の挑発をしたわけでもないのに、白人の若者5人から人種偏見を動機とした襲撃を受け、ナイフで刺殺された。
現場に到着した警官は犯人を追う努力をほとんどせず、目撃証言や情報提供があったにもかかわらず、警察の捜査はずさんをきわめていた。また、ローレンスの両親に何の配慮も示さず、両親には知る権利があるにもかかわらず事件に関する情報を与えなかった。ローレンスは人種偏見によるいわれのない殺人の被害者だとすらみなされず、路上のケンカにまきこまれただけという憶測が為された。捜査とその後の調査を通じて、警察は核心となる情報を明らかにすることを拒否し、互いにかばいあって失策の責任をとろうとしなかった。


ローレンスの両親の粘り強い努力により、1996年に3人の容疑者が起訴された。
しかし裁判官は目撃者のひとりがおこなった証言を証拠として認めないと裁決したため、訴訟事実は総崩れとなり、全員が無罪となった。
1997年、ジャック・ストロー内務大臣はローレンス事件の徹底した調査を公示し、その結果は1999年にマクファーソン報告として公表された。

人種差別によるスティーブン・ローレンス殺人事件の捜査に関して、すべての証拠から導き出された結論は明白である。捜査に根本的な誤りがあったことは、疑う余地がない。事件捜査は、専門職としての無能力、制度的人種差別主義、上司の統率力不足が重なって、台なしとなった。


また、報告書ではロンドン警視庁だけでなく、刑事裁判制度を含む他の多くの制度体も

住民に対して、その人の皮膚の色や文化、出身エスニシティが原因となって、専門職として適切なサーヴィスを提供できない・・・・集団的機能停止状態に陥っている。無意識の偏見や無知、思慮のなさ、人種差別に満ちたステレオタイプ化によって、エスニック・マイノリティの人びとを不利な境遇に追い込み、結果的に差別につながる手順や姿勢、見方、行動のなかに、集団的機能停止状態を見いだしたり、感じとることができる。

と結論づけた


また、この報告において70項目におよぶ警察への勧告がなされており、そのなかには「人種差別問題への認識を警察官のあいだに養成すること、人種差別主義的警察官を免職できる規律的権力の強化、何が人種偏見にもとづく事件につながるかをもっと明確に規定すること、黒人やアジア人の警察官の総数を増やす努力」が含まれていた。


アンソニー・ギデンズ社会学」日本語版第4版 P319〜320の記述を要約したもの。


ここで言及されている「制度的人種差別主義」という考え方は、「人種差別主義が社会の構造全体に周到に浸透していることを示唆する(ギデンズ「社会学」P318)」ものであり、当然ながら社会意識も問題圏に含まれており、僕のいっている差別の考え方「人びとの関係性から導かれるものであり、だれもがそれに加担しうるもの」とほぼ同じものですにゃ。


ここで注目すべきは、「ロンドン警視庁だけでなく、刑事裁判制度を含む他の多くの制度体」という公権力組織が制度的人種差別主義の巣窟であると指摘しているところですにゃ。そして、意識改革が必要であると勧告しているのだにゃ。
つまり、

  • 公権力が差別者にならないためには、制度的なもの、つまりは差別意識を認識し問題となければならない

ということになりますにゃ。
これ、どう考えてもエゲレスだけの話ではにゃーよな。国家権力のあるところすべてにあてはまる話でしょうにゃ。「公権力は差別をしません」というのは、公権力が国民に対して行った約束(=憲法など)のなかでも重要なものであり、これは権力自身の正当性のためにも必要なことのはずだにゃ。

アファーマティブアクション

ちょっと脱線してアファーマティブアクションについて。
勧告の中に「黒人やアジア人の警察官の総数を増やす努力」が含まれていることにも注目にゃんね。
アファーマティブアクションとは一般的に被差別集団に対する優遇措置と考えられているけれど、ここからは別の視点が持てるのではにゃーだろうか? マクファーソン報告中でなされた勧告において、「黒人やアジア人の警察官の総数を増やす努力」というのは、直接的に黒人やアジア人を優遇することを目的としているわけではにゃー。警察権力がマイノリティ集団を差別しないために、公権力がその正当性を確保するために、黒人やアジア人の警官を増やせといっているのだにゃ。


日本でも、性犯罪被害におけるセカンドレイプなどの問題は、法曹関係者に♂が圧倒的に多いということと無関係ということはにゃーだろう。アファーマティブアクションは単純な問題ではにゃーのだが、「公権力の正当性確保を目的としたもの」、という位置づけも可能な施策であるという理解は悪くにゃーと考えますにゃ。
公権力の正当性を確保していくのが、まともな保守主義というものですにゃ。この理解はアファーマティブアクションを建設的に議論するのに有用でしょうにゃ。

差別意識にまみれる司法

話をもどしますにゃ。
ここまででわかったことは、公権力も差別意識にまみれているということですにゃ。
そしてそれは警察・司法の場においてあらわれているのではにゃーかということにゃんね。
日本政府の人権意識の低さといったら先進国中最低レベルってのはよく知られているし、エゲレスは少なくとも日本よりは人権意識に敏感ということになっているはずにゃんしな。そしてそのエゲレスでスティーブン・ローレンス事件ですよ。
日本の司法の現場においても、セカンドレイプはあるわ、冤罪事件の被害者は被差別者であることが多いわ、この国の司法の差別意識をあらわしているんでにゃーの? エロゲなんかが不当に厳しく摘発されるのも、この司法の差別意識と関係するのではにゃーかな。他にも具体例にはことかかにゃーよね。


クローズドなブログだけれど、id:isikeriasobiの書いている入管政策とかその司法の場においても、差別意識というか人権軽視がはびこっていることを感じるにゃ。ガキの人権が侵害されているんだという話をしているのに、子供の権利条約が重視されないってのはどういうことなんだかさっぱり理解できなかったけど、司法が単に権威主義のクソというだけでなく、「司法の現場は差別まみれですわ」という説明には説得力がありますにゃ。


公権力による表現規制とかいっても、その公権力が差別意識にまみれにゃんぞ。
つまり、適切な規制(そんなものがもしあったとしても)なんてことは公権力には望むべくもにゃーということになりますにゃ。
自らが差別者とならない、という目標だけで公権力にとっては実に重い課題ではにゃーだろうか。

まとめ

  • 差別は最終的には個々の具体的な人権侵害としてあらわれるが、制度的なもの(=社会意識・権力作用)を考慮しなければ差別に対応できない
  • 司法権力が制度的な差別の温床となっていることが、スティーブン・ローレンス事件で明らかになった
  • 公権力は、自らの権力の正当性を確保するためにも、制度的あるいは構造的な差別撤廃のために取り組んでいかなければならない
  • 表現規制はリベラルな法の捉え方からは困難なだけでなく、差別意識まみれの司法には(多分行政にも)適切な規制を行う能力がない


まだつづくよー


追記でブクマコメに応答 7日1:15ごろ

id:fut573 表現の自由, 考え方, 保留
『犯罪被害に遭う危険性が大きいのは、被差別マイノリティのほうであるということは、統計的に実証されている』←これについて詳しく。


まず、直感的に社会的な弱者が犯罪被害者となりやすいことは了解できると思いますにゃ。そして、社会的弱者と被差別マイノリティは重なる部分が大きい。


ヘイトクライムについて
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/jp/h/87.html
http://www.maeda-akira.net/texts/hate_crime/keiji_05.html


また、例えばメリケンでは死因にしめる殺人事件の割合が、
アフリカ系米国人>>アジア系米国人>=白人系米国人
もちろん、被差別マイノリティ内部での犯罪が多いのだけれど。


次に、♀を被差別マイノリティと捉えれば、DVを統計にいれれば圧倒的に♀が被害者となりますにゃ。もちろん、DVには暗数がものすごくでかいんだけど。
また、特に凶悪犯罪では♀加害者は♂加害者の10〜20%未満ってのは世界的にもけっこうあてはまるようですにゃ。
無論、性犯罪の被害者は圧倒的に♀。

id:crowserpent 差別, 人権, 行政, 性表現, 権力と政治, そのりくつはおかしい, あとで書くかも
差別を「意識や心理」の問題に還元することこそ差別の矮小化(心理主義)ですよ。権力構造と意識とは分けて考えなきゃ。参考:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060430#c1146448236

いやいや、意識に「還元」なんてしてにゃーってば。ちゃんと、制度的差別ってコトバを使っていますにゃ。マクファーソン報告だって、制度改革を勧告しているだろ?
参考リンク先でも「ジェンダーフリーはもともと制度改革ではなく意識改革プログラムとして提案されているので、わたしは賛成できない。」とありますにゃ。
意識に還元するのは反動だけど、制度は意識も含む話ですにゃー。

*1:2009-06-03もご参照のこと