言論・表現への法規制に抗するために

差別問題を考えるうえでの前提

ここ数年の日本のレイプ事件の認知件数は、だいたい二千件をこえたあたりで推移しているようですにゃ。しかし、実際におきているレイプの件数は少なくとも数倍はあると考えられていますにゃ。警察へ届け出にゃー被害者がいるからにゃんね。こういう、実際には起こっているけれど、届出がにゃーので認知されにゃー数を「暗数」というようですにゃ。
♀が被害者となる性犯罪において、社会が性差別的であるほど性犯罪被害者の♀は届出することのハードルが高くなり、暗数が増えることになりますにゃ。今の日本においても、法廷におけるセカンドレイプやら、被害者に対する有形無形の嫌がらせやらを考えると、性犯罪被害者として名乗り出ることのハードルは高いでしょうにゃ。強姦魔にとってはウハウハの世の中にゃんね。


性犯罪被害♀を中傷したり、レイパー♂を「元気な人」と評価するような社会においては、ますます♀は性犯罪被害を届出にくくなり、レイパーはますますウハウハにゃんな。
ここでは、性犯罪被害♀には不利であり、レイパー♂には有利な構造が最初からあるわけだにゃ。そしてその構造は言論・表現によって強化されるものにゃんね。性差別的表現をその社会がどのように扱うかによって、被害者を泣き寝入りさせ性犯罪者を高笑いさせることにもなるわけですにゃ。


ここで重要なのは、「レイプは元気な♂のすること」「レイプされた♀が挑発したんだろ」とかいうよくある豚言説によって、あるいはレイプもののポルノをみて興奮し、「よし、俺もいっちょ漢(おとこ)としてレイプしてみっか」と考えるゾウリムシ脳なんてものは想定する必要すらにゃーということだ。
性差別的言動の流通、ある種のポルノの商業的流通などがメッセージとなって、性犯罪被害者が声をあげられにゃー状況、強姦魔パラダイスの状況を作ることができますにゃ。実際に、性差別的慣習の強い文化では、レイプ届出の暗数がでかいということらしいしにゃ。
繰り返すぜ
その社会の性差別意識が強ければ強いほど、性犯罪被害者が声をあげられなくなり、
強姦魔が高笑いすることになるんだにゃ。そして、ある社会の性についての意識というのは、言説や表現と、その流通のあり方に多くを依存しているわけだにゃ。


そして、このあたりのことは性差別に限ったことではにゃー。
同性愛嫌悪の強い社会では、同性愛だというカミングアウトすら生命の危険を招きかねにゃー。ナチ支配下で、ユダヤ人が権利侵害に対して声をあげることなんて無理だろにゃ。


よって差別とは

  • 具体的な権利侵害に対して、被害者が声をあげることが困難であり
  • 社会的な意識に左右され
  • その社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される

もの、つまりは

  • 社会意識が大きな役割を演じる構造的な人権侵害

なのですにゃ。


このあたりが、差別問題を考えるうえでの前提だにゃ。
いっておくけれど、このあたりは俺定義でもなんでもにゃーぞ。あとで論証するけどにゃ。

差別は人権侵害

さて、このエントリはhttp://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090527/p1のコメント欄で予告したものですにゃ。
僕が問題視しているのは、id:NaokiTakahashiのエントリおよびコメント欄での主張である

  • 1)レイプは人権侵害だが、レイプを描いた作品は反道徳だ。人権の議論をしているのか道徳の議論をしているのかこそが問題の焦点
  • 2)「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」は当然、人権侵害ではありません。「殺人の娯楽的消費」が殺人ではないのと同じです。
  • 3)具体個人の具体被害を根拠にしない表現規制には、ヘイトスピーチに対するものであれ、俺は明確に反対
  • 4)「差別性」を認めるのと「人権侵害」を認めるのとでは意味がまったく違うと思う
  • 5)エロゲの土台には(というか、ポルノの土台には)女性差別の思想があると思います。それは道徳的には一定批判されるべきだとも思います


このあたりの主張を批判的に検討してみましょうにゃ。
まず、(4)【「差別性」を認めるのと「人権侵害」を認めるのとでは意味がまったく違うと思う】からいきますかにゃ。これはいくらなんでもひどすぎるにゃー。俺定義にしてもダメダメ百万光年。
人権についてもっともスタンダードとなる文章を以下に引用しますにゃ。


世界人権宣言 第二条 1
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類する【いかなる事由による差別をも受けることなく】、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。


国際人権規約(A規約) 第二条 2
この規約の締約国は、この規約に規定する権利が人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位による【いかなる差別もなしに】行使されることを保障することを約束する。
※B規約にもほぼ同じ条文がある


いずれも外務省のサイトより 強調は引用者


差別性と人権侵害を区別するのはいくらなんでもダメすぎだろ。【「差別性」を認めるのと「人権侵害」を認めるのとでは意味がまったく違うと思う】って文を読んだとき、あまりのことに脱力が括約筋にまで及び糞尿を垂れ流すところだったにょー。にょーにょー。
世界のほとんどの国で締結している条約をフツーによめば「差別=人権侵害」なんだにゃ。ここは動かしようがにゃーんだな。

(5)で「エロゲ=差別に基づく」といってしまっているわけで、これはつまり「エロゲは人権侵害」ということになり、NaokiTakahashiの議論は雪崩のように瓦解してペンペン草も残らにゃーわけだ。

「差別的」も人権侵害

ここで、「NaokiTakahashiは、差別【性】と人権侵害を区別しているのだ」という反論が予想されますにゃ。
差別的であることは銀の弾丸ではない - 地を這う難破船においても


それが差別であることと、差別的であることは、違う。前者は人権問題だが、後者は表象の問題だ。


それが差別であることと、差別的であることは、決定的に違う。

と述べられていますにゃ。


ではここに反論しますにゃ。「差別」についてのもっともスタンダードとなる文章を以下に引用しますにゃ。


女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約 第一条
この条約の適用上、「女子に対する差別」とは、性に基づく区別、排除又は制限であつて、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする【効果又は目的を有するもの】をいう。


外務省のサイトより 強調は引用者


【効果又は目的を有するもの】というところにスペシャル注目。
具体例としては、♀が結婚するときに限り退職金を優遇する措置は労働基準法4条の性差別禁止にひっかかるとかにゃ。この措置って、具体的な差別ではにゃーよな。退職金が多くもらえるんだから。しかし、この措置は「♀は専業主婦やっとけや」という「効果又は目的」を持つものと考えられるので、差別と解することは妥当だにゃ。
「男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする【効果又は目的を有するもの】」が性差別である以上、差別性・差別的、と差別、を切り分けることは不適当なのだにゃ。ここでは、差別的なものは差別であり、したがって人権侵害となるのだにゃ。


最初に僕は差別とは以下のようなものだといいましたにゃ。
具体的な権利侵害に対して、被害者が声をあげることが困難であり、社会的な意識に左右され、その社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象されるもの、つまりは「社会意識が大きな役割を演じる構造的な人権侵害」
この差別についての考え方と、女性差別撤廃条約の考え方とは同じものなのですにゃ。女性差別撤廃条約の前文からすべて読んでもらえるともっとはっきりするけれど。

強者の論理

差別というものが「社会意識が大きな役割を演じる構造的な人権侵害」であり、差別的な「効果又は目的」を有するものである以上、差別的なものはただちに人権侵害となりますにゃ。これを【構造的な人権侵害】と呼んでおきますにゃ。ヘイトスピーチも確実にこの類型にゃんね。
それに対し具体的な人権侵害を【個別的な人権侵害】としておきますにゃ。


【個別的な人権侵害】以外は人権侵害として認めないという立場は、世界で多くの国が批准した条約に矛盾したもの、いってみれば「俺定義」であり、さらにいえば強姦魔を高笑いさせ性犯罪被害者を泣き寝入りさせるものだにゃ。
強者の論理、強者の「俺定義」なんだよ。


構造的差別を考慮しにゃー自由主義、弱者に配慮しにゃー自由主義なんてものは、豚臭い強者の論理でしかにゃーのだ。
差別的なるものは人権侵害だ! 自由主義は強姦魔の味方ではない!
自由主義をおとしめるな!

国家に金玉を握らせるな

しかし、NaokiTakahashiの議論もsk-44の議論も、そのモチーフは支持しなければならにゃーだろう。ある種のポルノにせよ、ヘイトスピーチにせよ、それを法規制することに反対することを目的とした議論だからだにゃ。
しかし、差別的なるものがそのまま人権侵害となるのでは、法規制を支持することにしかならにゃーと思われるかもしれにゃーですね。

人権侵害と捉えるということは、その被害は救済されなくてはならない、と考えることと同義じゃないのかな? 人権の、侵害なんだから。加害者に賠償責任を負わせるなり、刑事罰を課すなりが、当然次のステップとして想定されるだろう。
tikani_nemuru_Mさんはなぜか「法規制には賛成しない」とおっしゃるけど、人権侵害を規制しなくていい理由がはっきりしない限りは、それは個人的な共感か温情か一時的なお目こぼしに過ぎず、擁護論としては破綻するので、受け入れられるはずがありません。

とNaokiTakahashiも書いていますにゃ。
お答えしますにゃ。


人権侵害の被害は救済されなくてはならにゃー。然り。
しかし、人権侵害の救済を、なぜ国家権力に独占させなければならにゃーんだ?
人権侵害の被害救済と国家権力の介入が短絡的に結びついているところがおかしくにゃーかな?


【個別的な人権侵害】は緊急性もあり暴力が介在しているケースも考えられ、警察力を背景にした権力の介入が効果的な場面も多いでしょうにゃ。権力を監視しつつ、具体的個別的な状況次第で権力の介入を要請しなければならにゃーでしょう。
しかし
【構造的な人権侵害】に警察権力を介入させてなんのメリットがあるんだ? 禁止して罰すれば意識が変わるの? せくーすを禁じればせくーすしにゃーとか、オナヌーを罰すればオナヌーしにゃーとか、同性愛を禁じれば同性愛をしにゃーとか、そういうもんなの? それって体罰教師みたいにゃんなあ。臭いものにフタをしても、さらにドロドロぐちょぐちょに腐敗するだけだにゃ。
構造的な人権侵害の主戦場は、言論であり表現であり、その流通形態だにゃ。だからそこで戦う。NaokiTakahashiのいうとおり、人権侵害は救済されなければならず、sk-44のいうとおり、市民社会の構成員である私たちは現実の差別を撤廃する責務を負っているのだから、ここで戦えばいいんだにゃ、市民の義務として。


人権とはそもそも公権力に対抗するためのツールにゃんな。権力に対抗するツールとしてもっとも使い勝手のよいのが「言論の自由表現の自由」ですにゃ。これを公権力に引き渡すわけにはいかにゃー。言論の善し悪しの決定を公権力に握られた社会ってのが全体主義ですからにゃ。
金玉を握られてたまるか! 法規制賛成派は「玉無し野郎」*1だにゃああああああ。


だいたい、差別問題に対して公権力がやらなきゃならにゃーことは山ほどあるはずだにゃ。差別撤廃の下準備をまずやらせるのがスジであって、言論への介入なんぞ認めるべきではにゃー。


公権力に対するムラマサとして、表現の自由を熱狂的に支持しますにゃ。
しかしね
メリケンにおける表現の自由をめぐる裁判で、しばしば「保護するに値しない言論」といういい方がされるそうだにゃ。にゃるほど理解できる。
対公権力の刃を、被差別者にふるう連中をなんで支持しなきゃならにゃーんだ?
安全なところから弱者に石を投げる連中のために「表現の自由」があるわけにゃーだろが。
そんなのはロックでもなければ「七人の侍」でもにゃーんだよ。
公権力を介入させずに、言論というフィールドで構造的な人権侵害を叩くのだにゃ。

自主規制とはなにか?

リンク先のNaokiTakahashiのコメント欄の議論では、差別問題=道徳問題には配慮しなければならず、自主規制もその文脈*2で語られているにゃ。
ここも気にくわにゃー。
エロゲーを愛してるんだったら、道徳なんかで自主規制すんなよ。
道徳というコトバは多数派の恣意的な思いこみの正当化として使われることが多いのだにゃ。だから、道徳への配慮ってのは、要するに「長いものにはまかれろ」「表面的なとりつくろい」っていうことにもなるわけにゃんな。表現者はそんなもんに尻尾を巻いてはいけにゃー。


表現者は道徳なんかに尻尾を丸めてはならにゃーが、しかし、構造的な人権侵害には配慮する必要があるのだにゃ。表現内容ならびにその流通の形態は、差別意識の表象であり、社会へのメッセージともなるにゃ。構造的な人権侵害を避けようとするところに自主規制の必然性というものがでてくるのですにゃ。表現としての必然性と構造的な人権侵害への配慮からゾーニングなどの自主規制がでてくるのであって、単なる妥協の産物などではにゃーと考える。


すべてのポルノが差別的であり*3作品そのものは構造的な人権侵害となりえるとして、よく練られたゾーニングなどの自主規制は性差別を一般に流布しないというメッセージともなりえるのではにゃーだろうか? 
あるいは作品そのもののもつ力と差別性の比較考量という視点もあるよにゃ。具体的な被害者がいにゃー人権侵害というのは事実なのだから、比較考量するというのもありえるわけですにゃ。愛好者による批評空間をつくって、作品を多面的に評価していくのもよいでしょうにゃ。エロゲだって性差別 だけ で成りたっているわけにゃーからな。

まとめ

ヘイトスピーチにしろ、ある種のポルノにしろ、それらが少なくとも差別であり構造的な人権侵害であることは共有されるべきだと考える。またそうした構造的なものが個別的な人権侵害を助長させると考えることも妥当だろう。「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」はこうした考えに基づいている。
しかし、構造的な人権侵害をめぐる主戦場は表現・言論とその流通形態であり、意識が大きな役割を演じている。よって警察力を背景にした公権力の介入の有効性には疑問符がつく。さらに、表現の自由は公権力に対抗するための必須ツールであり、表現の妥当性の判断を公権力に委ねることには深刻な問題があり、危険性が大きい。
対抗言論や自主規制などで、あるいは作品そのものの力と作品の読み解きなどを通じて、差別=構造的な人権侵害を容認しないというメッセージを出しつづけるしかないだろう。表現者も愛好者も、自分の頭で考えるということだ。自分の頭で考えつづけるために、「構造的な人権侵害」という認識が緊張感を与えることができる。
考えることをやめたとき、例えば強姦魔が高笑いすることになり、法規制や社会の分裂が待っているだろう。

追記 10:40ごろ

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090529/p3
という「レス」をいただきましたにゃ。
ここのブクマコメで
「僕は法規制を主張していない、最初から法の話などしていないので、僕に対する反論としてはまったく成立していない。僕の主張は人権侵害と法との切り分けだ。」
と主張したところ

NaokiTakahashi
だからね、貴方が何を主張したいかは関係ないの。法規制したくてたまらない連中の口実に使われるだけなんだから。法規制の議論をしてる場で、人権の侵害の話をしているんだから、そりゃ法の話でしかないよ。


とのブクマコメをいただきましたにゃ。
議論相手に「レス」と銘打たれて「貴方が何を主張したいかは関係ない」と言われたのはさすがにはじめてなので、記念にとっておきますにゃ。まあ、こういう論者だということで。
リンクしたNaokiTakahashiのエントリが、僕の論に対する反論として成立していると考え、それをブクマコメなどで表明したヒトタチは文盲ということが証明されてしまいました。


まあ、ゆっくり料理させていただく。

*1:大事なところなので差別表現で強調してみました

*2:および商売の文脈

*3:そもそもすべてのポルノが差別的だと僕は思っていないのだが