飢え渇き卑しい顔をして、生きねばならぬこの賭はわたしの負けだ


僕にとって春というのは陰鬱なことを考えがちになる季節で、思えば去年の今ごろもチンパンジーの子殺しとカニバリズムの話をえんえんとしていましたにゃ。まあ、陰惨なことを考えられる時期というのははなはだ元気なんだけどさ。
しかし、ここ数日なにかこういやーな感じがしているのは、僕の内面なんかよりもずっと醜悪な娑婆の世界の事件を耳にしていたからでしょうにゃ。ええ、新風のヘイトスピーチ在特会のデモですよ。


というわけで元気がなくなってきたので、中絶の話についてはとりあえず今日で小休止としますにゃ。

ごくごく個にゃん的感覚についてつれづれと
僕の感覚では胎児を殺すことが倫理的に悪いことだと感じられにゃーのですね。
生まれないこと(=未生)と、死なないこと(=不死)とは僕にとっては同じことのように感じられる。光を知らぬままに闇にかえることが、何らかの意味で悪いことだという感覚がにゃーのです。
ベルセルクの胎児にしろ、諸星大二郎孔子暗黒伝のラストにでてくる黄金の胎児(=ヒラニア・ガルバ)にしろ、胎児のままであることこそ永遠なのではにゃーのだろうか。生まれにゃーのであれば死ぬこともにゃー。それにこしたことはにゃーのでは。

母親によると、僕には姉がいたはずなのだそうですにゃ。
女手ひとつで僕と弟を育てた母と、未生の姉を否定することが僕にはできにゃーのですね。


僕が鮎川信夫にいかれたのは、鮎川の「姉さんごめんよ」という詩によるところが大きい。鮎川も姉がいなかったはずなのだけれど、このような詩を書いていますにゃ。


姉さんごめんよ


生きのびてきたわたしの心に
忘れがたい悲しみの面影がうかぶとき
うつくしかつた姉さん!
いまでは墓穴にかくれ
ひとりで牛乳を匙ですくつて
ほそい咽喉に流しこんでいる姉さん!
あなたはむろん黙つているけれど
愛と死の隠れんぼはやつぱり楽しいものだろうか
あなたの育たなかつた乳房や
あなたが男を誘惑するはずだつた可愛いい頬の黒子のことを
私はかぎりなくうらめしく思う
影になつたあなたの子供らしい微笑が
情慾に飢えた私の魂をやさしく愛撫する
純潔だった姉さん!
あなたは本当に暗い地下にひとりで住んでいるのですか
あなたの乳房や
あなたの可愛いい頬の黒子のことを
どうしてわたしが覚えていなくてはならないのか
あなたの未来の指輪が青い光をあつめ
あなたの未来の時計の振子がうごくのをまえにして
姉さん!
片言まじりの甘美な言葉で
あなたはどうして人生にさよならを告げたのか
わたしはいまでも眼鏡のつかれをぬぐい
誰もいない淋しい部屋を夢想する
姉さん!
飢え渇き卑しい顔をして
生きねばならぬこの賭はわたしの負けだ
死にそこないのわたしは
明日の夕日を背にしてどうしたらよいのだろう

僕のところはいわゆる「できちゃった婚」であり、ガキができたということを知ってからだいぶすったもんだしたものですにゃ。


実のところ、いちどは中絶しようと考えましたにゃ。
「産もうが堕ろそうが、あんたの決めることに従い、全力で支える」
とか相棒に対して僕はいっててさ、これは実に卑劣な逃げのコトバだにゃ。こんなことをいわれているようじゃ産めにゃーよな。


中絶手術をする前日になって、何を思ったか「やっぱ産む」と相棒がいい出し、予約をしていた産科に電話をかけたんだよにゃ。予約を破棄して申し訳ありませんが産みます、といったら、電話口でじいちゃん先生が「それはよかった。おめでとう」といってくれて、「そういえばうちのガキを最初に祝福してくれたのは、あの産科の先生だったっけ」と相棒がこのあいだ言っていましたにゃ。
うちのガキはそのときにニンゲンになったのかもしれにゃー。

で、ガキを産むと決めたときに、羊水スクリーニング検査などの優生学的措置はいっさい拒絶するとふたりで決めたのだけれど、これって実は利己的な行為だと僕は認識していますにゃ。ただ、たとえ優生学的検査を拒絶したとしても、重篤な障害があれば超音波エコーなどでわかるだろうし、そうした場合に自分たちがどういう選択をしたかは何ともいえにゃーですね。
ひとついえるのは、どんな選択をしたとしてもそれは利己的なものなのではにゃーのだろうか。


ガキをつくろうがつくるまいが、中絶しようがしまいが、ガキを産んでから捨てようが捨てまいが、あるいがガキを殺そうが可愛がろうが、どんな選択をしても利己的なんだということですにゃ。ガキを産んで育てるって、やっぱり利己的な行為だよにゃ。社会のために・人類の義務として、なんて理由でガキ産んで育てるなんてやってられにゃーもの。自分の好きでやる利己的なものですにゃ。
あえていうけど、障害のあるガキを産んで育てるのも、障害のあるガキを嫌がるのも、やはり利己的なことなのではにゃーかと思う。親が好きでやることですにゃ。子育てを社会が支援してくれるのは、まあ確かにありがたいことですにゃ。ただそれはガキに対する支援であって、親に対するものではにゃーのでしょう。


性と生殖がかかわることにおいて、どんな選択をしようと、あるいは選択をしなくても、利己的なものでしかにゃーです。僕は利己的にこどもを作って利己的に育てている。それだけであって、偉くもなんともにゃーし、誰かに卑下されることでもにゃー。性と生殖がかかわる選択において、誰も他者を非難することなどできにゃーように思う。
生まれてしまったのだから、飢え渇き卑しい顔をして、虫けらのように死ぬ日まで生きるしかにゃーのでしょう。