臓器売買が認められない理由。そして代案


先日のエントリにいくつかトラバをいただきましたにゃ。その中でも臓器売買をお題にしたNATROMのエントリに応答しつつ、もうちょっと突っ込んで考えてみますにゃー*1

中国の死刑と臓器売買

日本の刑罰は重いか軽いか (集英社新書)

日本の刑罰は重いか軽いか (集英社新書)

この本*2のP54〜P56をざっと要約すると


今の中国の法律によれば、死刑囚は生前に臓器の提供に同意した場合や、家族や親族が同意した場合は、執行された後に遺体から臓器を摘出して移植できる。その際、臓器の売買は否定されていない。法律家もそのことに賛成しているのが一般的。
その理由として


1)死後の自分の身体に対して死刑囚には自己決定権があり、臓器提供を通して金銭を得て、それを家族への最後の貢献または被害者への賠償としたければ、それを禁じる理由はない。


2)死刑の執行によって刑事的な責任を果たしたとしても、民事賠償責任を果たしたことにはならない。財産があればそれで賠償すべきであるが、財産がないのであれば死後の臓器提供で得た金銭で賠償することを禁じる理由はない。


3)死後の遺体は単なる もの であり、人間の尊厳などの原理を適用する必要はない


にゃるほど、中国の法律家が賛成しているだけあって、理路そのものは一貫しているようですにゃ。残された家族への経済的補償はもちろん、犯罪被害者に対する損害賠償も【自己責任】でやれということにゃんな。
犯罪被害者への公的補償をないがしろにする我がニッポンにおいても、というか所得再分配後に子どもの(コメ欄指摘により「子どもの」部分追加)貧困率が上昇する*3我がニッポンにおいても、死刑囚が臓器を売ることを認めることは検討に値するからにゃ?
と、もちろん↑は皮肉だよ。犯罪被害者に対する公的補償や所得再分配をきっちりやるのがアタリマエだにゃ。


ところが、皮肉で終わっていい話でもにゃーんだよな。
格差、貧困、行政府の無策を前提にすれば、死刑囚が自分の臓器を売ることを禁ずる理由なんてなくなるのではにゃーのか? というか、貧困や格差を放置して臓器売買を否定するのは、うわっつらのきれいごと、おためごかしになるのではにゃーだろうか?


つまり、悪いのは貧困や格差であって、臓器売買そのものが悪ではない?
あれ、この理路はどっかで見たぞ?

売買春と愚行権

以前あげた売春が悪とされてきた本当の理由と非モテ童貞の真の敵 - 地下生活者の手遊びというエントリの「暫定的な結論」において、自由主義愚行権を肯定する立場から以下のように述べましたにゃ。


売買春つまり性的資源と経済的資源との交換を否定するロジックは自由主義には存在しない。
恋愛の自由(含、恋愛しない自由)とは自らの性的資源の処分権であり、それは一身に属する権利ということができる。
一身に属する権利としての売春する権利があるからこそ、強制売春は決して認められない。


貧困や就業差別によって間接的に売春が強制されることも十分に考えられるので、暴力を用いた単純な強制はもちろん、貧困や差別を原因としての売春も一種の強制売春とみなすべきですにゃ。その場合、売春を強制しているのは女衒でなく社会だよにゃ。♀を売春に追い込む社会ってのは、女衒なみのクソにゃんね。
しかし
売買春そのものに被害者は存在しにゃーってのはガチ。さきほどリンクしたエントリの記述を再掲すると


売春を悪とする論者はいろいろと理由をあげるけど、それらのほとんどは売買春そのものが悪いということを論証することには成功していにゃーようだ。売春そのものが悪いということを論証したいのなら、

  • 教育を受け、経済的な余裕もあり、職業選択の実質的な自由がある♀が、自由意志に基づいて売春をすること

を禁止する理路をひねくりださなければならにゃー。

こうした事例を否定するためのロジックは主に2種類

  • A)道徳や公序良俗を個人の自由の上位に置く
  • B)性あるいは身体をニンゲンの尊厳の中核に置く


どちらも自由主義とは相性がよくにゃーんだな。


自由主義においては、個々人は自らの道徳を選択すべきだと考えるのでAは避けたいし、性あるいは身体をニンゲンの尊厳の中核におくのも、個々人に強制されるべきものではにゃーし、そもそも自由主義とは愚行権の容認なのでBも却下というのが僕の立場ですにゃー。
よって、僕は各人の性的資源を処分する権利を一身に属する権利として認めますにゃ。
ではこの理路で臓器という資源の処分権を一身に属する権利として認めることができるのか?
答えは【否】ですにゃ。以下に理由を述べますにゃー。

自由主義の立場から否定する

売春そのものを否定するためには

  • 教育を受け、経済的な余裕もあり、職業選択の実質的な自由がある♀が、自由意志に基づいて売春をすること

を否定する理路をひねくりださなければならにゃーと述べましたにゃ。
実際に、職業選択の実質的な自由をもち、貧困などに追い込まれてという理由ではなく自由意志に基づいて売春するという人格は十分に想定可能ですにゃ。自分の性が経済的価値を持つことに喜びを見出し、かつ不特定多数との性行為にそれほど抵抗がないのであれば、職業として選択する余地があるよにゃ。顧客を選別し、性感染症や妊娠のリスクをコントロールすることも可能だろうし。障害者相手のセックスワークとなると、社会的・倫理的に積極的な意味付けすら可能ですにゃ。


しかし

  • 教育を受け、経済的な余裕もあり、職業選択の実質的な自由がある者が、自由意志に基づいて臓器を売る

という事態はヒジョーに考えづらい。
いやね、これは僕に想像力が欠けているからかもしれにゃーのだが、どうしてもこういう人格を想定できにゃーんだわ。誰か考えついたら教えてくださいにゃー。


つまり、臓器売買においては、必ず何らかの強制が働いていると見るべきなのではにゃーかと考えますにゃ。


自由主義というのは、自由に考え自由に行動するための社会的な基盤が要求されるものであると僕は考えますにゃ。社会保障や医療・教育の機会均等は自由主義の基盤といえるでしょうにゃー。メリケン自由主義社会だなんて僕は考えてにゃーですね。あれは経済奴隷制社会ですにゃ。


したがって、自由主義の立場から、臓器の売買・市場化を否定しますにゃ。


また、補足しておくと、臓器を売ることで体力がなくなって前のように働けなくなったりして、貧者はますます困窮するということもよくあるようですにゃ。臓器売買を公に認めた場合、臓器提供者は貧者に限られ、しかもそれは身体という最後に残された資本を棄損する行為でしかにゃーわけだ。
ちょっと前に商工ローンが問題になったときに「腎臓売れや」とか弱者がいわれてただろ。

医療という公的資源の介在

さきほどの理路は、「教育を受け、経済的な余裕もあり、職業選択の実質的な自由がある者が、自由意志に基づいて臓器を売る」ことがありえるような人格が説得的に想定された場合、ちと説得力が失われますにゃ。他者の内心の忖度に立脚した理路は強くにゃーよね。
というわけで、臓器売買を否定する理路をもうひとつ。


自由主義の立場から売買春を否定できにゃーというのは、愚行権自由主義の根幹にあるからでしたにゃ。僕たちは他者に危害を加えにゃー限り、愚行と見なされようと何をしてもよいわけにゃんね。ただし、私的領域において。
愚行権とは私的自治をレトリックを用いて言い換えたものであると言えますにゃ。


くーすが私的領域において行われるものであることは論じる必要すらにゃーよな。私的なものであるからこそ、誰とせくーすをするか、あるいはしにゃーかは私的に決定してよいことですにゃ。他者危害に該当しにゃー限り(つまりレイプやロリはご法度)、誰と寝ても寝なくてもかまわにゃーわけだ。アタリマエだよね。
そして、せくーすにおいては、公的な資源を使用するということもにゃーわけですよね。性的資源が公的だと考えると、例の「産む機械」とか、チャウシェスクの中絶禁止とかいう話になってくるわけだにゃ。端的にいってそれはファシズムにゃんね。
つまり

  • 売買春は私的領域で行われ、公的資源も使用しないので、愚行権で弁護できる

となりますにゃ。


ところが、臓器売買って、医療という公的資源を使わにゃーと成立しにゃーというか、医療そのものが公的領域にあるわけですにゃー。公的領域において公的資源を使うのであれば、社会的合意は必須であるし、道徳・倫理を無視するわけにはいかにゃーってことになりますにゃー。

臓器売買と愚行権

というわけで、売春を弁護した愚行権(私的自治)の理路を臓器売買に適応するのは

  • 1)臓器売買は必ず何らかの強制が働いており、弱者が食い物にされると推定

つまり意思自由がありえないと推定され、愚行権の適用が不適

  • 2)臓器売買は公的領域において公的資源を使用する

つまり愚行権の適用範囲外


また、市場化で臓器の提供が多くなり品質が良くなるというのも怪しいんですよにゃー。
例えばWikipedia:売血の項を見てくださいにゃー。金銭的なインセンティブに頼るよりもモラルに訴えたほうが品質が高くなり、結果的にコストダウンできるということもあるのではにゃーだろうか?
まあ、若者が「モラル不足」で献血しなくなり、献血がそれなりに危機的状況にあるみたいですけどにゃ*4


それに、ニンゲンの臓器、しかも脳死者の臓器などというものは基本的に限られていますにゃ。どうしたって限られた【資源】の奪い合いということになりますよにゃ。
市場の醍醐味は余剰を産みながら、パイを大きくしながらそれをうまく配分することにあるわけで、ゼロサムゲームを前提にして市場化するのは支持できにゃー。
もちろん、人工臓器やトランスジェニック豚・ノックアウト豚なんかの技術は市場化して安全性とコスト性を高め、開発者はきっちり儲けていただきたいと思いますけれどにゃー。

では代案は?

NATROMが紹介している論文、

において、臓器提供制度を7つに分類して論じてありますにゃ。
詳細はこの書類を見てもらうとして、僕は「相互保険型 (Mutual Insurance Model)」を支持しますにゃ。リンク先のファイルより適当に引用。


相互保険型の臓器提供制度とは、「(他人から)臓器をもらいたければ、自分の臓器を提供する気がなければならない」という表現が簡潔に示しているように、自分が死後にドナーになるという登録をした人は、臓器移植が必要なときに優先的に受けられるという制度である。


Steinbergによれば、臓器提供者(‘organgivers’)はしばしば無償の奉仕を行っているが、必ずしもレシピエント(‘organ takers’)が同じような善行を行っているとは限らず、互恵的な関係が成り立っていない。現在の制度は、利益は得るが負担は負わない「フリーライダー」を許す制度であり、よりよい互恵的な協力関係を築くためには上で述べたような相互保険型の臓器提供制度によってフリーライダーを極力排除する必要がある。Steinberg の詳細な案をここで説明するのは控えるが、Veatchが提案しているように、現行の臓器移植ネットワークにおける臓器配分の優先順位を決めるアルゴリズムを修正して、死後の臓器提供意思のある者には数点を加算するという風に考えるとよい。


このような相互保険型の制度の長所としては、以下のものが挙げられる。
(1)当人の自律(自己決定)が尊重される
(2)UNOS やEurotransplant にもすでに医療ニーズ以外の考慮(たとえば、すでに生体ドナーとなった人は、臓器が必要なときに優先的に臓器提供を受けられるなど)が入っている
(3)フリーライダーが減って公平である
(4)臓器提供数が増える
(5)お金が介入してこないので貧者の搾取が生じない
(6)社会における互恵性や協力関係について見直す機会になる

相互保険型をなぜ支持するのか

僕が相互保険型を支持する最大の理由は、

  • 1)脳死をニンゲンの死と認めるか
  • 2)死体を資源として取り扱うことを認めるか

の2点を認めるかどうかは各人の自由であるが、この2点を認めたものでなければ脳死者からの臓器移植を受けることは許されにゃーからだ。1を認めずに臓器移植を受けるものは殺人者であり、2を認めずに臓器移植を受けるものはニンゲンの尊厳を否定することになりますよにゃ。
つまり、1、2を認めにゃーものの世界観・人間観を尊重するのであれば、彼に脳死者からの臓器移植をしてはならにゃーということになりますにゃ。
脳死をニンゲンの死と認めず、あるいは脳死体を医療資源として扱うことを認めにゃーという世界観・人間観を尊重するための措置、つまりは脳死についての思想信条の自由、意思自由を実質的に担保するための措置だと考えますにゃ。


リンク先の論文では、この相互保険型に対して以下のような反論があるそうですにゃ。


(1)臓器提供しないと自分が必要なときに受けられないかもしれないという心配が強制となって働くため、臓器提供が自律に基づくとは言えない
(2)医学的なニーズ以外の考慮に基づいて医療資源を配分するのは不正
(3)臓器移植について十分な知識を得られない社会的弱者や、早期に発病する病気を患う人々などにとって不公平である
(4)LifeSharers の加入者の数を見てもわかるように、この制度では臓器提供者は増えない
(5)この制度はお金が介入してこないが実質的に臓器の取引を行っているため、臓器売買に他ならない
(6)人々はさまざまな仕方で社会に貢献するので、臓器提供に限定して互恵性を求める必要はない


以上の考え方で、ほぼ論駁できると思いますにゃ。ではざっくりと。
1)←意思自由を実質的に担保するための措置である。脳死をヒトの死と見なさない者にとっては、脳死体からの臓器移植は殺人であり、殺人を強制できない。
2)←ごもっともだけど、現実に経済状態で受けられる医療はぜんぜん違うんですけど。理想論としては結構だけど、資源の有限性を考えてくれ。それにこれは意思自由を担保するための措置だ。
3)←どのような方法であろうと社会的弱者は不利。この制度が他の制度に比べて特に社会的弱者に不利となるという根拠がない。また、早期に発病する病気については個別に考慮すればよい。
4)←この相互保険型に一元化すれば増加が見込まれる。ボランティアとの併用ならフリーライダーが有利
5)←脳死体を資源とみなすことを認めた集団内での資源の取引である。取引だから売買というのは短絡的。弱者が搾取されるわけではない。
6)←脳死をヒトの死と見なさない者にとっては、脳死体からの臓器移植は殺人であり、殺人を強制できない。よって互恵的関係を限定する必要がある。

最後に

さーて、問題は、自分が臓器を提供するのはゴメンだけど、ヒトからは欲しいというフリーライダーにゃんね。この考え方では、
1)脳死をニンゲンの死と認め・脳死体を医療資源と認める者→脳死体からの移植肯定者
2)脳死をニンゲンの死と認めない・脳死体を医療資源と認めない者→脳死体からの移植否定者
3)自分は提供するつもりはないが、他人からは提供されたい者→フリーライダー
の3者がでてくるんですよにゃー。


ニンゲンは弱いものだというのは前提だとは思うけど、こういうあからさまなフリーライダーを尊重する必要性はさすがににゃーだろ。
ドナー登録をしてにゃー者には臓器が絶対に供給されにゃーようにするかどうかは制度設計上の問題にゃんが、1の集団は脳死体を医療資源であると認めたヒトタチなんだから、資源が無駄になるくらいなら3のヒトタチに臓器がわたってもよしとすべきでしょうにゃ。
で、
3のヒトタチがカネにあかせて臓器を買ったりしたら、つまり正規ルート以外での臓器移植をしたら、それは人身売買、あるいは傷害とか殺人未遂と見なして厳しく罪を問うてもいいのではにゃーだろうか。相互保険型が普及すれば、非正規ルートの臓器移植を厳しく見る世論もできるでしょうからにゃ。


以上の話を、意思自由に見せかけた強制ととるヒトタチがいるのではにゃーかと予測していますにゃ。
だけど、この話も【観客席がない】ものだと僕は考える。
【観客席がない】ことを前提としたうえで、論理的整合性と互恵性という倫理の基盤を守り、さらに意思自由を尊重するとなると、これくらいしかにゃーのでは?

*1:http://d.hatena.ne.jp/demian/20090210/p2へも応答したいけど、とりあえず後に回させていただきますにゃ(ぺこり

*2:diamonds8888xにコメ欄で教えてもらった本。とても興味深かった

*3:http://www.yhlee.org/diary/?date=20090212#p01 あたりを参照

*4:献血というのは、年寄りのために若い奴の血を抜くという統計的傾向が実際にあるようですにゃ。若者のモラル不足を嘆く前に、若者がモラルを持てるような資源配分をしなければ話にならにゃーよな