非政治の政治性とムラカミハルキ(追記アリ


先日のエントリに批判的な反応がいろいろと寄せられ、それに個別応答しようかとも思っていたのだけれど、そもそも自分でこのエントリに我慢のできにゃーところがあるので、個別にDISるような真似は自粛させていただきますにゃ。
で、
自分で書いたものの何が我慢ならにゃーかというと、

となっているところにゃんな。なので、「1人の愚かな大衆として」などというイヤーな物言いをしているわけだにゃ。このレトリックはダメだ、要反省。酒を入れてDISをするなというmyルールを守れなかったのでみっともにゃー姿を晒すことになりましたにゃ。
まあ、みっともにゃーところこそ晒しておかにゃーといけにゃーよな。


ところで、論争にあたって旗色のワリイ方が、【ネタ】だったと宣言して遁走をはかるということはありがちですにゃ。
しかし、ネタだというのは逃げる理由となるものなのでしょうかにゃ?
というのも、本気(と書いてマジと読む)の部分がなければネタとして成立する余地というものがにゃーわけだ。ネタをネタたらしめるものこそ【本気】なのであって、「ネタでした」という時にこそ、そのネタをネタたらしめる【本気】の部分が往々にしてあからさまになってしまうわけですにゃ。
「ネタでした」とやるくらいなら、ゴメンナサイしたほうがはるかにダメージは少なくてすむのですけれどにゃー。


僕がここで書いているものは、いってみれば全て【ネタ】なのだけれど、【ネタ】であるがゆえに全て【本気】ですにゃ。【ネタ】を理由に逃げたらオシマイにゃんね。



というわけで、先日のエントリにおける【本気】の部分をだらだら垂れ流してみますかにゃ。自分でもまるでまとまってにゃーのだが*1

ムラカミハルキと無徴

  • 文学・芸術を理由にした非政治というのは、実はとても政治的であるということ

投票に行か【ない】ことは、政治的に大きな意味を持つことだにゃ。これは誰でもわかるよにゃ。つまり、政治的で【ない】ことを肯定してくれるような魅力的な文学作品や芸術は、とても政治的であることになりますにゃ。
非政治性というのは現状維持に手を貸すことにたいていなるわけで、反体制が青臭くて暑苦しいものであるのなら、カッコいい非政治というのはその実はえらく生臭く老かいなシロモノですにゃ。僕にとっては、ムラカミハルキってのは政治的にすぎて読めなかったということですにゃ。


この非政治の政治性というものを、このエントリでは【無徴】というコトバで言い表していますにゃ。ムラカミハルキの文学ってのは、NOBODYに受容された文学なのではにゃーのかと思うんだけど、これはまあ読むのを投げ出した僕が言っても説得力はにゃーんだけどな。
説得力なしついでにもう少しいうと、ムラカミハルキはけっして芸術至上主義の作家ではにゃーだろう。先日のエントリで引用した鮎川信夫の言葉によると「文学を第二義的なものとして取扱っている」作家なのではにゃーだろうか。
この状況は、ムラカミハルキが何を第一義的なものと考えているかを明らかにするでしょうにゃ。だから、エルサレム賞をめぐるムラカミハルキの言動にはファンこそ注目すべきなのではにゃーかな?
そして
【無徴】に受容されたムラカミハルキというペルソナの振る舞いには、僕も興味津々なのよ。


実際に、今回のムラカミハルキの言動を想定しているファンのヒトタチは、その作品から言動を想定してるわけだよにゃ。作家の言動と作品を同一視しているのは、実はファンのほうだろ? はてな界隈のこの騒動ではっきりしたのは、ムラカミハルキのファン(の典型的なある部分*2)は、この作家にあくまで【無徴】の側にいてほしいということだにゃ。
ムラカミハルキの中のヒトは、多分とても頭のよいヒトなので、ファンが作家と作品を同一視しがちなことも、ファンでないヒトの目も、なんやらかんやらをいろいろと考慮して、ムラカミハルキというペルソナの言動を決めるのでしょうにゃ。
いやいや、ホントに興味深い。

無徴と中立の政治性

そして一方に、主にここで述べた科学技術の中立性というものがありますにゃ。で、この科学技術の中立性と【無徴】は分離不可能ではにゃーかとNOBODYエントリで述べましたにゃー。


科学は中立とされていて、中立を要請もされますにゃ。そのイメージは科学者にも及びますにゃ。科学者って、なんだか中立っぽい感じがするよにゃ。
そして、中立とは高度に政治的なことですにゃ。いわば、中立という政治的責任があるわけ。

例示したアインシュタインファインマンさん*3は、こうした科学の中立性という政治的責任を果たした科学者のイメージの体現者ですにゃ。アインシュタインファインマンさんは、科学の中立性という政治的責任を果たした(と一般に思われている)から、いろいろと人気があるのだと僕は考えますにゃ。


エルサレム賞受賞により、ムラカミハルキは「文学を名目にした政治の場」に引っ張り出されてしまったわけですよにゃ。僕にとってのムラカミハルキは、生臭くて読めにゃーほど政治的な文学を書いていたヒトなわけで、こうした非政治の政治性を売りにしてきた作家が、あからさまな政治の場に引っ張り出されて、どんな【責任】をとるのか。
無徴も中立も政治的な責任を要求するものですからにゃ。
いやいやいや、ホントに興味深い。

追記で応答 19:35ごろ

id:naok1991 思想, 文学, なるほど, 政治
"中立とは高度に政治的なことですにゃ。いわば、中立という政治的責任があるわけ。"/酒のくだりは要らない気がします。

いやー、こう書いて晒しておくほうが、自分の行動を抑えられるのではにゃーかと(ぽりぽり

id:mobanama はてな, とりあえずぶくま
科学における「偉大さ」と「政治」「人気」についてちょと考えた。第一義的には前者は後者から独立で評価したい。人格破綻のマッドでも偉大な業績は偉大だと認めたい。でも一般には栄光なき科学者列伝に入るのかな

うん。僕の視点は「科学の社会的役割」「科学は公共財」という視点に偏ったものだということは認めますにゃ。
でも科学には「最強レベルの暇つぶし」「面白ければいいんだよね」などという、いわばゲージュツやらブンガクやらテツガクのモチーフに連なるところもあるというのはわかってはいるつもりですにゃ。屑でも人殺しでも、偉大な業績は偉大だよね。
ただ、科学と技術の絡み、公共性を考えると、科学者は常に社会性を問われざるをえにゃーとは考えますにゃ。

id:welldefined
吊るせ吊るせに加わらないという行動は確かに政治的であるだろう。はっきりと絶縁状を突き付けられているのだよ独善者諸君。

誰が誰を吊るせと騒いでいるのか、誰が誰に絶縁状をつきつけているのか、あたりをはっきりと書いていただけるとありがたいにゃー。独善には憧れてますにゃー。

id:quagma
ちょっと…前の記事にもろてを挙げて賛同しまくっていたわたしの立場はどうなるの… この記事の分析はまことに正確なものだと思うけど(苦笑)

ごめんよおおおおお。
でも、前の記事のレトリックは否定したけど、論旨を否定したつもりも取り下げたおぼえもにゃーです。

id:morimori_68 自由権
他人様に踏み絵を踏ませるような振る舞いはNGである。「降りる自由」についての議論の蓄積がなかったことのようになっているのはおかしい。

思想だの文学だのでメシを食っている者に、「降りる自由」はにゃーと僕は考えますにゃ。受賞拒否をしたら「降りる意思」があったということは認めますけどにゃ。

*1:というか、こうしていろいろと書いていることの最大の目的は、自分の考えをまとめることにゃんね

*2:コメント欄の指摘により追記

*3:ファインマンさんにだけ、なぜ「さん」付けするかについては、http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080614/1213453980