派遣村叩きに見られる呪術思考(追記アリ


派遣村」にジミンのおっさんが出かけて、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まってきているのか」と呆言し、公的に叩かれているけれど、ネットのある部分ではとても擁護されているとかにゃんとか。
2chとか やふのコメントとか直接見ると頭に来て仕事にならにゃーので、ここらへんのコピペを見ているわけにゃんが、いやいやいや、これはコピペでもゲロ臭くて鼻がひんまがりそうですにゃ。
「黙って死んどけ」
「若い頃何もしなかったことを棚に上げてよくやるわ」
「どんだけクズなんだよ 派遣は」
「こんなやつらを保護する必要なんかない。自分で何かする必要がないだろ。」
「この件については黙ってるつもりだったが、あえて言うわ。「死ね」/他者からモノを恵んでもらう立場である自覚がない。努力する人は助けたいが、恥の欠片もない猿に恵んでやるものは持ち合わせていない。」
などなど


ニンゲン、ここまでゲロ臭くなれるものなんですにゃー(呆気
さて、このゲロ臭い発言がどういうところからきているか、が今日のお題ですにゃ。

呪術思考

以前にも紹介したレヴィ=ストロースのコトバですにゃ。呪術の支配する世界では、偶然などというものは存在しにゃーということですにゃ。


今これを書いている僕も読んでいる君も、読み書きができてネットを見られる環境にいるわけで、それだけでまずまず上出来の部類と考えていいかもしれにゃー。そして、この「上出来」さというものは僕や君が生まれつき才能があったとか努力をしていたとかいうところに原因があるわけではにゃー。たまたま生まれた場所と時に恵まれていただけのことですにゃ。
アインシュタインゲーテアリストテレスなどという人類史的な頭脳に匹敵するほどの能力を持ちながら、たまたまインドの下層カーストとか、アフリカの独裁政権下、あるいはパレスチナのガザに生まれてしまい、飢え死にしたり虐殺されたり犬のような暮らしを強いられて一生を終えたヒトたちは何人も何人もいると僕は確信していますにゃ。努力もクソもにゃーよな。
僕も君も、ただ単純に運がよかった。
日本に生まれたとしても、例えば母子家庭の平均年収は200万ちょいだっけ?
高校も大学も学費は上がる一方で、母子家庭のガキは高等教育なんてなかなか受けられにゃーな。こんなところに平等な条件での競争なんてものがあるわけにゃー。
親がそこそこ安定した職についてカネを稼いでくれたヒトは、確かに運がよかった。


と、以上のような思考を呪術においてはしにゃーわけです。
「たまたま」「ぐうぜん」「うんがよい・わるい」というコトバは、呪術思考の辞書にはにゃーんだ。
悲惨な境遇にいるということは、それなりの確固とした理由がなければならにゃー。結果には原因がなければならにゃーのだ。そしてイチバン簡単に考えられる原因は、それらの境遇を本人のせいにすることなのですにゃ。こんなのが典型。
だから、被抑圧者・被差別者などに対して「きたない」「ずるい」「能力がひくい」「やるきがない」というレッテル貼りをすることになりますにゃ。


そして、差別する側は、自分たちが差別されていないという偶然から、自分たちは「清く正しく美しい」という結論を引き出すことができるのですにゃ。呪術における全面的な因果性とは、つまり原因と結果が必要十分条件として対応するということであり、結果から原因を求めることは当然なのですにゃ*1

呪物としての貨幣


金持ちであればあるほどカネの機能を理解しており、それを消費することよりもなお、貯蓄することによって得られる効用が高いことを知っているのではないかという仮説である。本当は使いたいけど将来が不安だから貯めるのではなく、貯めたいから貯めるのだ、ということだ。資本主義社会においてカネとは、権力であり、自由である。資本として活用することで合法的な支配関係を実現するし、また、政府(中央銀行)の保証によって将来の不確実性を減免するための数少ない有効な手段としても機能するからだ。メルセデスBMWロールスロイスマイバッハといった、他人よりいいクルマに乗るのは大層快感なのだろうが、権力や自由を求める人間の欲望と比べた場合、些か見劣りするのも確かだろう。たとえば自身の名声がマイバッハを所有することから生じる名声を上回った場合、つまり消費的な方法によらず名声を得ることに成功した暁には、消費活動の限界効用は貯蓄活動の限界効用を下回るのではないか。大衆は、貯金通帳の数字を眺めることが生き甲斐の貯蓄性向が高い人物について守銭奴的と揶揄し嘲笑するが、その守銭奴的な姿こそが人間の本来の姿のはずだ。有難そうに消費を賛美する人間の方こそが不自然なのであり、資本主義社会の家畜といえるだろう。


http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081229/1230538257 より


ケインズによると、不確実性を避けるために価値を維持する手段としての貨幣に対する過大な需要が発生するとかいうことらしいし、マルクスは貨幣の物神崇拝を語っておりますにゃ。そのあたりのことも考慮された記述なんだろうにゃ。


さて、先日のエントリでマナについて引用しましたにゃ。そちらもできればご覧いただくとして、今回は「盗まれた稲妻 呪術の社会学」よりマナについての記述を引用しますにゃー

盗まれた稲妻〈上〉呪術の社会学 (叢書・ウニペルシタス)

盗まれた稲妻〈上〉呪術の社会学 (叢書・ウニペルシタス)


マナそのものは、電気のように、いかなる種類の効力にも含まれているような一種の力であり、非人格的ではあるが、人に付着するものである。マナはどんな種類の効力でもあるのだが、社会的効力が最上とされ、基本的モデルであるらしい。それは結果において明らかにされる。誰かがマナを持っていると、その人はそれを使うことができるが、それはまたいつでもどこでも起りうる。すべてのいちじるしい成功はその人間がマナを持っている証明であり、その人間の影響力はマナを持っているという印象を他者に与えるかどうかにかかっている。ある人が首長になるのは、彼が持っているとされるマナによる。さらに、人間の政治力あるいは社会的力がマナであり、またマナであると考えられている。どんな効力もマナである。つまり人間が闘いに勝つ場合、勝利をもたらすのはその人間の右腕なのではなく、マナなのである。


上巻 P302 強調は引用者による


さてお立ち会い。
非人格的ではあるが人に付着し、どんな種類の効力でもあるのだが社会的効力が最上とされ、結果において明らかにされる、というこのマナという呪力。これってほとんどカネのことではにゃーか! 引用した部分において、マナをカネに換えても意味が成りたってしまうのだにゃ。「すべてのいちじるしい成功はその人間がカネを持っている証明であり、その人間の影響力はカネを持っているという印象を他者に与えるかどうかにかかっている。ある人が首長になるのは、彼が持っているとされるカネによる。さらに、人間の政治力あるいは社会的力がカネであり、またカネであると考えられている。どんな効力もカネである。」とかね。


マナのような概念は世界中いたるところにみられるようですにゃ。日本の「カミ」概念はマナ概念に近いようですしにゃ。
マルクスは貨幣が物神化する過程を論じているようですにゃ。もともとマナのような、非人格的で人に付着し、どんな種類の効力でもありえるが社会的効力が最上とされる呪力というモデルがニンゲンの心にあり、それが物象化されたものが貨幣だと捉えれば、マルクスの理路の傍証になるのではにゃーだろうか? また、ケインズのいう、不確実性を避けるために価値を維持する手段としての貨幣に対する過大な需要が発生する、という理路も、この「貨幣=マナの物象化理論」は傍証になるように思えますにゃ。そして、chnpkのいっていることそのまんまでもあるよにゃ。

  • 貨幣はマナの物象化したものであり、呪物である。
  • この呪物は非人格的であるが人に付着し、すべての効力を持つが社会的効力が基本である
  • 呪力の有無は、結果において明らかとなる。つまり全面的な因果性が公準となる。

つまり、貨幣は呪物なのだからその欠如に「たまたま」「うんのよしあし」などというものはあってはならにゃーのだ。すべては自業自得であり、自己責任となる。


合理的・科学的な思考というのは、レヴィ=ストロースに言わせれば「栽培された思考」であり、表面的なものにすぎにゃーそうだ。呪術思考によって捉えられた「経済」とは、たぶん「呪力の循環」なのではにゃーかと思われますにゃ。

共通善に従わない敵を排除せよ

共有されるべきは【悪】や【誤謬】(追記アリ - 地下生活者の手遊びというエントリで共通善について述べましたにゃ。
共通善というのは、宗教共同体などで典型的に採用されるもので、その内部の善男善女にとっては必須と感じられるものであるが、その善を共有しない者にとっては抑圧的であり、現実的に排除される危険がある。思想を共有しないだけで排除の危険があるのは自由主義とはいえないので、自由主義においては共通善は採用されない。自由主義において共有されるのは、「やってはいけないこと(いわば共通悪)」である。善を共有しようとしない自由主義を、善男善女は嫌う。
などということを書きましたにゃ。


派遣村叩きをしているヒトの心理を分析すると、こんな感じだろうかにゃ

派遣村で文句をいっている連中というのは、呪力が欠如している(=カネがない)。それは本人に原因がなければならない。その原因とは、努力するとか自己の価値を高めるとかいう「共通善」に従っていないことに帰せられる。
我々が多少なりとも呪力(カネ)をもっているのは、我々の行いが正しく、善にのっとったものだからである。派遣村の連中に呪力が欠如しているのは、連中が善に従わなかったからである。これらは結果において明らかになっている。
共通善に従わない者は排除しなければならない。それこそが善である。枯渇しつつある呪力を、連中に分け与えるわけにはいかない。


にゃっはっはっは。ファンタジー系のゲームとかマンガの設定みたい。
まあ、今回の経済危機を「カネ=マナ」と置き換えてまとめれば、ゲームの設定ができあがるかもしれにゃーな。

結果において明らかになる

「全面的な因果性をその公準とする」と「すべては結果において明らかになる」は同じことであり、これが呪術思考の特徴といえるでしょうにゃ。この思考は、陰謀論疑似科学歴史修正主義も含む)と非常に親和性がよろしいでしょうにゃ。
自分にそこそこの呪力(経済力)がある場合、それは自分の正しさのゆえであり、自分の気にくわない者に呪力がある場合、それは犬神などの悪しき呪術(陰謀)などに帰すわけだにゃ。そして、共通善(自分たちの価値観)に従わないものは冷酷に排除する、と。
まさに無敵の思考法にゃんね


ちなみに、飢えや極端な貧困はほとんど普遍的に悪なので、悪を共有したうえでそれをなくそうとするのが自由主義というものだと僕は考えていますにゃ。

追記 19:50ごろ

ブクマコメのいくつかに応答

id:matsunaga民俗学
呪術思考についてのとらえかたが偏っている(偶然はないという考え方は、必ずしも弱者排斥に結びつかない)

おっしゃるとおり。
あえて偏った捉え方で述べている自覚はありますにゃ。例えば、王殺しなんかも「偶然はない」から導けますしにゃ。
また、呪術は自我の確立には必須の心的操作だとも思いますにゃ。

id:Britty 文化人類学, 貧困, 経済, ネットウォッチ
マナ概念を用いてレヴィ=ストロースマルクスの貨幣フェティッシュ論を接続(丸山圭三郎かアルテュセールを経由させてる?)/論はやや粗い。呪術の全面的な因果性と充足理由律の違いを説明できるのか

粗いとの指摘はおっしゃるとおり。
マナ概念と貨幣フェティッシュ論との接続と、派遣村叩きの心性についての考察は、本来は別立てにすべきでしょうにゃ。しかし、マナ=カネ論をなるべく多くのヒトに読んで欲しくてタイムリーな話題とつなげて統一性と精確さを犠牲にしましたにゃ。
あと、丸山もアルチュセールも経由させてはにゃーです。このアイデアは、ストロースのいうゼロ記号を考えていて思いついたものですにゃ。

id:Gedol 社会
「マナ」は「武力」と置き換えることも可能だったりする。あと派遣村叩きは単なる「自分がそうならないために行う呪い」だと思うぞ、魔術的には。

それもおっしゃるとおり。
でも、僕の議論とも矛盾はしにゃーと思う。


自分のエントリにつけられたブクマコメの中で、特に理のある批判的意見についてはスターをつけるように心がけていますにゃ。応答すべきものには応答もするつもり。


ところで昼前にあげて現在で60弱のブクマをいただき、読んでいただいてタイヘンうれしいのだけれど、なぜかホッテントリ入りしてにゃーです(嗚咽
時間的に僕の前の記事も後の記事も、ブクマ数が当記事より少なくてもホッテントリ入りしているというのに。さては呪いか陰謀か!?
せっかく書いたものは読まれたいとは思っているので、残念だにゃ。どうなっとるんだろ?


(どうでもよい再追記)20:00ごろ
あれれ?
http://b.hatena.ne.jp/hotentry にはあがってるにゃ。
http://b.hatena.ne.jp/hotentry/diary のほうにはあがってにゃーのだが。
なんでだろ? こんなことはじめてにゃんな。仕様の変化か?


つまらんことを書いて自己顕示欲を晒してしまったよ、にゃっはっは。
まあ、己の馬鹿は削除せずに晒しとこ。

*1:疑似科学にはまってしまうヒトにもよくあるパターン