体験によらない知識の重要さについて言っておく

知識をDISるよくある言い草

「知識そのものなんて価値がない」、とかいう言い草は昔からありましたにゃ。「大事なのは思考力(or創造力・共感する力・協調性など適当にいれてください)だ」とかいった話には耳にタコですにゃ。
にゃんか、「塾通いで勉強はできるけど人間的にダメダメな秀才クン(メガネ)」というステロタイプの登場人物のごとき扱いだよにゃ、「知識」って。
と、そういううんざりするような記述を見つけたので引用&リンクしてみるにゃ


なぜなら、ネットの時代、知識は誰でも簡単に拾えるようになったので、知識そのものに価値がなくなったからだ。

いや、それは言い方が違うな。

本当に物知りなのか、ネットで拾っただけの知識なのか見分けることが困難になったからだ。ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える文章は作れる。

偉そうに何か書いていても、ついさっき検索して拾っただけかもしれない。

そんなことで得意になるのって、本当にくだらねえと思うよ。


中略


テクノロジーによって消滅した人間の価値は過去にもいろいろあるよ。

たとえば「力持ち」であることは、大昔は生産について重要だったけど、機械化によって社会的にはほとんど無価値になったでしょ。

このネット時代でも価値を持ち続けるものには、「才能」「センス」「根気」「創造力」「勇気」「共感する力」などいろいろ考えられるけど、とにかく、だ、「(体験によらない)知識自慢」の価値はすでに地に落ちたよ。


http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080922


引用した文章は、雑学で食っている特定人物をDISるための文章ですにゃ。それはそれで全然かまわにゃーんだけど、盗作をしたといいたいならそこを突っ込めばいいことであり、知識とか雑学とかまで悪者にするのはやめて欲しいものですにゃ。
「雑学とは「役に立たない知識」だそうだが、役に立たない知識ばかり(しかも間違いだらけ)持ってるだけってことは、やっぱり何の役にも立たない人間だってことじゃん!」とかいうDISりをされると、自分に向けられたものではにゃーとわかっていても、にゃんか反射的に「役に立たなくて悪かったなあああああ!」と身構えてしまうのは僕だけではにゃーはずだ。

賢人とはどんな人だったのか

古代ギリシアにおいては、賢人になるための方法として記憶術が教えられていたそうですにゃ。なにせ紙もなければ印刷術もなく、書籍がべらぼうに高価であったがゆえに、知識人としては記憶力が必須であったということももちろんあるでしょうにゃ。もしこういう理由だけで記憶術がもてはやされていたのであれば、外部記憶装置に知識をストックしておいて誰でもアクセスできるようにすれば、記憶術などは無用の長物となるはずですにゃ。
ところがそうはならにゃーんだな。


知識というものは、一人のニンゲンの頭の中に多くぶち込まれることによって、「化学変化」とでもいうべきものを起こす。例えば、孫子とナポレオンとハンニバルの戦略について1人の頭の中に入っているときに、それらの知識が詳細であるほどその比較検討もまた詳細に行われ、あらたな発見や戦略の提示に結びつくのではにゃーのか? 知識とは思考の素材であり、天才ならぬ凡愚の身としては思考の素材なしに思考しろといわれてもどうしようもにゃーと思う。
それどころか、感情の振幅をもたらすものさえ経験的知識(ここでは記憶といったほうが適切か)ですにゃ。頭がいいということの重要な要素のひとつに、分散と集合・具体と抽象・帰納と演繹などの対立する方法論を自在に行き来する触れ幅の大きさがあると僕は考えるけれども、この触れ幅をもたらすものこそ1人の頭の中に集積された知識なのではにゃーのか?
知識集約型とか情報集約型とかいうコトバがあるけれど、その集約の極限こそが、1人の頭の中に知識や情報が突っ込まれることなんでにゃーのか?


知識そのものの希少性という事情もあったのだろうけれど、1人の頭の中に多くの知識があるということはどういうことなのか、昔の人はわかっていたのではにゃーのかな。

記憶の関連づけ

記憶術というのは、個々の知識を場所なり時間的継起なりに関連づけることによって知識を定着させるという手法をとるものが多いようですにゃ。然り。断片化させにゃーことによって知識の定着をはかるのは効率的な方法でしょうにゃ。
ところが、逆もまた真なり、でしてにゃ。
定着された情報は、脳の中で勝手に他の情報と関連づいていってしまうのですにゃ。その典型として、時間的に継続して起こった事象に、ありもしない因果関係を見いだしてしまうというものがありますにゃ。
ニンゲンが疑似科学にはまってしまいがちな理由として、ありもしない因果関係をそこに見いだしてしまうという性向*1が大きな役割を果たしているというのはよく言われることですにゃ。


「体験によらない知識」にしても、それが頭の中に放り込まれると、ほっといても他の何かと関連づいていってしまうものではにゃーのかな。他と何の関連もない記憶とか知識なんて、そもそも保持することが困難だろうにゃ。
多くの知識を有しながら、独自の見解をまるで持ってにゃー人物って実際にどこかにいるんだろか? そういう人物ってマンガ的にすぎにゃーのでは?


前掲の引用に
「(体験によらない)知識自慢」の価値はすでに地に落ちたよ。
とあるけれども、体系的知識を軽視して体験を重要視するのも疑似科学のトラップにひっかかり放題になりそうな気もするわけですにゃ。
だいたい、知識とは「他者の体験」にほかならにゃーわけだ。体験を重視するのであれば、自らの体験と他者の体験(=知識)を照らし合わせてみなければバランスを欠くのではにゃーのかな。自分の体験オンリー重視では独我論だにゃ。

自然カガクと事実の共有

「体験の共有」のために、僕たちニンゲンはコトバを作り出しましたにゃ。コトバを使うことで思考や感情を共有し、次世代に伝承することも可能となりましたにゃ。
しかし、コトバで表現されたのは各個人によって解釈された思考や感情ですよにゃ。これらの思考や感情を共有し、民族において集団で伝承を重ねながら深化し洗練させていったのが神話の思考といえますにゃ。その読み解き方を理解すれば、神話は圧倒的なリアリティをもったものとして僕たちの前に姿を顕しますにゃ。
しかし
西欧近代において、自然カガクの方法論が確立され、あらたな「共有」が可能になったのだと僕は考えていますにゃ。自然カガクによってあらたに共有されるようになったものとは何か。それは、「事実そのもの」と僕は考える。


体験に意味を与えるのは、個々の事情ですにゃ。各々の事情の特殊性が、各々の生に意味を与えていく。他の誰とも取り換えのきかにゃー存在であることの自覚を、エリクソンは「アイデンティティ」と言いましたにゃ。
体験とは意味づけされることにより個人の生の一部となり、ひいては民族の物語としてそれぞれの存在に意味を与えていくのが呪術や神話の世界においておこることですにゃ。そこに意味や解釈からはなれた「事実」などは存在していにゃーのだ。そこでは大いなる意味の連鎖のなかに、自らの存在があるのですにゃ。ニンゲン存在にとって、それは真理であるといってよい。


ところが自然カガクにおいては、意味とか価値なんてものは触らずに、事実そのものがどうなっているかにその興味の焦点があるわけですにゃ。そしてカガクも集団知である以上は情報の共有は必須であり、そこで共有されるべき情報は解釈や意味づけをされる以前の「事実そのもの・生の事実」ということになりますにゃ。
コミュニケーション論とかメディア論の見地からすると、自然カガクの人類史的意義というのは「事実そのもの・生の事実の共有」が初めて可能になったことにあると僕は勝手に考えているわけですにゃ。意味を記述するには不向きで、連続的な量や複数の変数を扱うのが得意な数学という人造記述言語の発達も、この「革命」に資するところ大ですよにゃ。

カガクとは万人にとっての他者である

  • ガクモンというのは知を体系化して共有するシステムだ

ととりあえず言ってしまいますにゃ。一定の知的能力のある者であれば、努力次第で誰にでも共有が可能なオープンなものでなければ、それはガクモンというに値しにゃー。
しかし、自然カガクの方法論が確立する以前は、共有されていたのは意味や解釈であったのではにゃーかと僕には思えますにゃ。
ところが、

  • 自然科学は事実そのものの共有を可能にするシステムをつくりあげた

わけですにゃ。
この「事実そのものの共有」というのは、体験の意味性とか解釈、つまり「人間味」とでもいうものをそぎ落とすことによってえられるものだと考えられますにゃ。体験の意味や解釈を集団で共有するのは、神話や宗教ですにゃー。


意味とか解釈とか、個々のニンゲンにとって「しっくりと」くる部分をそぎ落として事実そのものをとり出すことによって成立するのがカガクなのだから、カガクは最初から非人間的であり「しっくりと」くるものではにゃーんだ。
そりゃあ「水からの伝言」は人間味のある言説だろうにゃ。コトバは無機物にだって伝わるのが神話というものだにゃ。しかし、人間味のある、しっくり感のある言説だからこそ、それはカガクではにゃーわけだ。自然カガクのやり方ってのは、誰にとっても異物なのですにゃ。だから、専門訓練をつんだはずの研究者が人種的偏見にひっかかったりする事例なんかも珍しくもにゃーわけだ。人種差別ってのも「人間味」にあふれたものにゃんからね。


つまり、カガクの方法論というのは万人にとって異物であり他者であるのですにゃ。そしてそれゆえに普遍性をもち、人類にとって特別な地位をえているわけにゃんね。
これって平等だろ? カガクってのは、キリスト教徒にとっても仏教徒にとっても無神論者にとっても思うようにはならにゃー異物だにゃ。自然カガクの母体としてキリスト教があったのは思想史的に妥当だとしても、だからといってキリスト教と自然カガクの相性がいいかというと、全然そんなことはにゃーってのは進化論をめぐる騒動で明らかにゃんからねえ。

まとめ

  • 体験なき知識も、1人のニンゲンの頭に放り込まれることによって勝手に関連づいて新しいものを生み出す可能性がある。少なくとも、頭の中に定着した知識はそれだけで生きた知識といっていい。役に立つだの立たんだのというチンケな基準でDISってはいかんだろ。
  • 体験なき知識をシステマティックに取り扱うのがカガクの方法論である。カガクの方法は万人にとって他者であるがゆえに普遍性をもつ。そして万人にとって他者であるがゆえに平等である。

体験ってものの重要性を否定するつもりもにゃー。しかし、体験なき知識だって使いようですよにゃ。そして、体験の重視だって、それはそれで落とし穴はぽっかりと開いているわけでしてにゃー。

*1:見方をかえれば「学習能力の高さ」ともいえるわけで、個体の生存においては合理的な性向ともいえるだろう