芸術崇拝と表現規制(敗北追記あり


ツィッターで連続ツィートするくらいなら、粗くても短くてもブログに書こうという方針にしたので、思いつきをさらりと。


承前


日本においては、「表現の自由」という名目で差別表現が正当化されることが多いってのはまあ確かにソノトオリなんだと思いますにゃー。じゃあだからといって、表現の自由を理由に差別表現をも許容する人たちをただちに差別主義者といってしまってよいかというと、これはそんなに簡単な話ではにゃーとは思うのですにゃ。


絶版になっちゃってて手に入れにくい(あっても古本クソ高い)のでリンクしにゃーけど「芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神: 松宮 秀治」という書籍を以前に友人から借りて読んだことがありますにゃ。
刺激的な議論を展開しているので、ウェブ上にもけっこー書評がありますにゃー。代表的なものとして


ものすごく乱暴にいうと、近代国家・資本主義の要請により、芸術というものが聖性を担わされ崇拝対象となったということが書いてある本ですにゃ。
この芸術という【神】は、天才的な芸術家の切磋琢磨と魂の懊悩のはてに作品に宿る神であり、個人の内奥のさらに内奥において到達する神であり、あらゆる社会性や善悪を超えた深みあるいは高みにおいて触れることのできる神であり、言い換えれば近代の個人主義的人権思想・自由主義思想ときわめて相性のよい神様なんですにゃー。こうした芸術観は、多かれ少なかれ近代国家においては受容されており、僕たちもその影響を免れているわけではないのですにゃん*1


小林よしのりなんかがよく「公と私」とか公私を対立物のようにいってて、これはほんとによくある通俗的な誤解なんですよにゃ。近代社会というのは個人が公的な存在である社会のことであって公と個に対立はにゃーの*2憲法個人主義であるとかいうのはそういうことなんですにゃ。
で、公的な存在というのは必ず聖性を帯びる、というか、聖性を帯びることなくして公的な存在たりえにゃーんだな、人間社会においては*3
個というものの聖性を認める近代社会において、個の表出の究極的な形態(ということになってる)である芸術表現が崇拝対象になるのは、まあ必然といえば必然だよにゃー。


そもそも日本社会って、無宗教な人が多いのではなく、自分の信仰に無自覚な人が多いだけという話もありましてにゃ。個人主義的で政治的なものから距離をおきたい人ってのは、けっこうこの「芸術崇拝」に親和的になるのではにゃーかと。
なんで日本でこんなにゴッホが人気があるのかというと、あれは芸術という神への殉教者だからともいえますにゃ。中原中也とかジミ・ヘンドリックスとかな、ああいう殉教者たちを頭から否定できる人ってのはむしろ少数でにゃーの? 僕も大好き♪ 僕らはなんだかんだと芸術を崇拝してるのではにゃーの?

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近代国家において芸術崇拝が制度的に要請されているとすると、法における「表現の自由」というのはこの神様への信仰を法制度において確立する装置であるという見方もできるかにゃー。近代国家においてはあらゆる「自由」は聖性を帯びているのだけれど、その聖性において上位のヒエラルキーを占めるのが「表現の自由」ということになるんでにゃーのかな。



この個人の内奥を突き詰めるところに聖性が現出する芸術崇拝においては、芸術的営為の純粋性を阻害する要因はなににしろ排除されなければならなくなりますにゃー。
この観点からすると、保守派の表現規制もリベラル側のポリティカル・コレクトネスも同じことになるのではにゃーのか? これも、近代における個人主義のひとつの帰結だにゃ。


さて
冒頭リンクにおいては、アニメやマンガにおける「作家主義」が語られておりましたにゃ。ここでは、日本のアニメやマンガが作家主義に基いて作られているかどうかは問題にしにゃーです。しかし、作家主義のものとして、つまりは芸術崇拝の思想にのっとってこれらが受容されているというところは確実にあると思うのですにゃ*4


というわけで、表現におけるポリティカル・コレクトネスを拒絶するのは、別に差別主義だけを要因とするものではにゃーだろうというお話でしたにゃ。
もちろんこの立場に問題なしというつもりはまったくにゃーのだが、このありえる立場に対して「差別主義者の自己正当化」とみなしては話がかえってややこしくなって仕方にゃーのではにゃーかと。


それと、ここでは「芸術崇拝の思想」に基づく表現規制反対について批判するのはパス。これ、真っ向から批判するのは考えてみると難儀だわーw
この文をここでやめておくとあっちこっちから批判されるだろうけど、本論はここでやめとく。


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だそく
作品におけるポリティカル・コレクトネスに関して、冒頭のtogetterまとめにある、ポリティカル・コレクトネスの考慮はSF考証や時代考証のようなもの、という視点は面白いと思いますにゃ。
あと、
多様な民族的あるいは性的指向性などなどにおける出自を前提としたチームによる制作を前提としたとき、作品におけるポリティカル・コレクトネスはグローバル市場での興行的成功のために必須である以前に、制作現場をまわすために必須なのではにゃーかと思われましたにゃ。


いいかえると
よりブラックでない、個々の多様な制作者を尊重した制作現場で作品をつくるのであれば、その作品はポリティカル・コレクトネスを考慮したものになるのは必然になるのではにゃーのだろうか? それとも日本の制作現場は、文化的に同質な中で、同化主義的に個々人を食いつぶしながら作品を作り続けるのでしょうかにゃ? それならばPCなんていらんだろうけどw

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追記

id:kamayan
「にゃー」文体は目が拒絶するので、ツイッターでの文体と同じ文体で書いてほしいと切に願う。


このブコメにスターがダントツでついてるじゃにゃーかああああ
℃ちくしょおおおおおおおおおおおおおおお!!!!


・・・しかたにゃーな
とりあえず
http://d.hatena.ne.jp/rna/20090208/p2 から

javascript:void(document.body.innerHTML=document.body.innerHTML.replace(/にゃー。/g,"ね。").replace(/にゃー/g,"ない").replace(/にゃん/g,"なの").replace(/にゃ/g,"ね"));

これをブックマークレットにしてくださいにゃー(なんか敗北感

*1:僕は神様だとか宗教だとかいうコトバを否定的に扱ったことはにゃーからね。神様だから宗教だから駄目だとかいうつもりはまったくにゃーのよ

*2:公と私には領域設定がある

*3:もちろん科学も聖性を帯びる。芸術も科学も近代社会においては神の代替物だから

*4:このあたりの話には、ハイカルチャーサブカルチャーとかいう話もでてくるかもしれにゃーのだが、個人の内奥の表出という視点でみればそのあたりに区別なんてにゃーしさ、むしろ、自らを周辺にいる存在という自意識を持つものにとってはサブカルのほうが投影と崇拝の対象になりやすいとすらいえるのではにゃーだろうか?

健康とは社会的なものでもあります、菊池センセイ


承前


WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。


Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.


健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)


http://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html


このように定義されている「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」というのは、本来ならばわざわざ言うまでもなく【価値】の領域にあるものだといえますにゃー。
これで【よい】、こうである【べき】と【感じられ】ることが健康ということであり、ここで定義されている【健康】という概念は、【幸福】や【福祉】といった概念と類似のものであるといえるでしょうにゃ。少なくとも、【健康】という概念は素粒子チャバネゴキブリの生態なんかよりは、【幸福】によほど近いカテゴリにあるんだにゃー。
というあたりを前提とした上で、冒頭にリンクしたtogetterで総叩きにあっている雑誌「科学」の公式ツィートを読んでみましょうかにゃ。



「専門家」が私たちの「健康」を定義するのでしょうか? 専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域があること。科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識すること。3.11後の『科学』論文選『科学者に委ねてはいけないこと』の底流にある問題意識です。


https://twitter.com/IwanamiKagaku/status/545935734251606016


このツィートのポイントは、まず「専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域がある」の部分ですにゃ。この言明はけっして専門家集団の知見を否定したり排除したりしたものではにゃーですね。「〜の領域がある」という言明は、他の領域の存在を否定しているものではにゃーよな。
続いて「科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識する」とあり、科学の領域を否定したり排除したりするものではにゃーということは明白となりますにゃん。
togetterコメント欄やブクマコメを見る限り、ここのところをちゃんと読めてにゃーお歴々が大量にいらっしゃりやがりますにゃー。こまったもんだ。


そもそも「社会的に満たされた状態」が健康の定義にはいってるんだから、そこに「社会的な合意による判断の領域」があるってのはアタリマエ。ニンゲンの幸福や福祉に近い概念である【健康】に、ニンゲンが意味を与え価値を認める状態である【健康】に、「社会的合意による判断の領域がある」ことのいったいどこがどうおかしいの?(呆気
冒頭リンク先で岩波「科学」公式ツィートを嘲笑している連中は、まるで駄目、0点、顔洗って出直して来い、のレベル。彼らが完全に間違っているのは明らかで規定事実なんだけど、それを彼らが理解できるかどうかは何ともいえにゃーなw
字が読めればここまでで十分なはずだけど、補足的な説明を試みてはみますにゃ。


ほそく1

三年以上前、放射線被曝の【許容量】について、武谷三男の引用からはじめたブログ記事を書きましたにゃ*1武谷三男はこういっていますにゃ。

許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。


この記事、いわゆるニセ科学批判クラスタの皆様に否定的には見られなかった記事ですにゃー(むしろ、一部の脱原発の人たちにものすごく嫌われたw)。放射線の被曝量と健康被害の関係についての事実は、そりゃ確かに専門家が検証するべきことがらにゃんな。しかし、その数値をもとにして許容量を決めるのはまさに「社会的合意による判断の領域」ですにゃー。
放射線被曝の許容量という、一見すると【健康】よりもはるかに自然科学の対象っぽい量的概念すら、社会的な合意なしに成立しにゃーのね。

ほそく2

【医療化 Medicalization】というコトバがありますにゃ。
詳しくは、以下のリンク先を参照


リンク先ではボケなんかが医療化の例として紹介されてますにゃ。最近ではメタボリック症候群あたりも医療化の例かにゃー? 以前はただのデブだったのが、最近では治療対象にゃんからなw あるいはニコチン中毒なんかも最近は治療対象にゃんなあ。

社会的な合意と医療化(脱医療化)が密接な関係をもつというのは、これもリンク先に紹介されている「同性愛的性向や男性間における肛門性交」なんかが典型例。同性愛は以前には唾棄すべきものとされ、医学的な治療対象であったけど、現在のいわゆる先進国ではそうでもにゃーでしょ?(ひどい例外は多々あるけどな)。


こうした、社会的な合意と医学的治療の対象になるかどうかの関連なんて、もういっくらでもあるんだにゃ。精神医学とか性医学なんかではもうてんこ盛りw

ほそく3

先ほどの論点の展開となりますにゃ。
国民健康保険などの公的な【健康保険】ってあるだろ? いうまでもなく、僕たちを健康にするための保険制度ですよにゃ。健康保険証を持っていれば、病気になったときに医療費の7割を支給されて大ラッキーにゃんね。
さてこの健康保険、美容整形に使うことはできにゃーですね、アタリマエ。美容整形というのは、医療というよりは医療技術を使ったサービスであって医療ではにゃーと思う。


しかし
ある種の病気などの原因で容姿に重大な問題が生じたときはどうでしょうかにゃ? あるいは先天的に極端な醜貌であったとしたら? 美容的な措置を医療と認めるべき状況というのはありえるように思われますにゃ。性同一障害もこのあたりの問題圏にゃんな。
極端な醜貌が心身の健康に関係ない、っていうお方は少数だろうし公的保険適用をよしとする方もいるでしょうにゃ。かといって、ちょっと鼻の形が気に入らにゃーからって健康保険で美容整形もありえにゃーよな。どういう状況において美容的な措置を健康保険でまかなうか、なんてのは「社会的合意による判断の領域」なんですにゃ。
つまり
おなじような美容的な措置であっても、それを医療とみなすのか医療ではないサービスとみなすのか、は社会的合意が必須なんですにゃー。


まとめと動機とおねがい

はい、というわけで
まず、健康とは価値判断を抜きには語れないので、価値判断は自然科学の領域外であること。「科学」公式ツィートでは専門家の知見を否定しているわけではないこと。補足説明においては、一見すると自然科学の対象っぽい許容量概念も社会的合意なしになりたたないこと、医療化の例により現実に社会的な合意により医療の対象(つまり健康概念)が変化していること、さらに健康や医療というものは社会的な合意なしに対象範囲を設定できないことをごくごく乱暴に述べましたにゃー。


以上
「「専門家」が私たちの「健康」を定義するのでしょうか? 専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域があること。科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識すること。」
という問題意識は至極まっとうなものであるといえますにゃ。医療や健康について考えるのであれば、当然におさえておかなければならにゃー論点にゃんな。ちょっと考えればわからなきゃならにゃーともいえる。


冒頭リンクで、「科学」公式ツィートを嘲笑している連中は、医療とか健康とかについてごく基本的なことを知らず、そして医療や健康について考えたこともなく、ただひたすら己のバカさを晒していることは明らかだと思われますにゃ。

togetter読みながら、ああいつものように馬鹿が並んで自らの馬鹿を世界に宣伝しているなあ、と思ってたわけだにゃ。でもまあ、見識のあるニセ科学批判の人は、こんな馬鹿に同調なんてしないよね、と思って読んでたらさー

岩波「科学」はどこまでおかしくなっていくのかな。ツイートもめちゃくちゃだね。あ、「科学」にも「いちから聞きたい放射線のほんとう」送ったけど、読んでくれてないだろうな


菊池誠 @kikumaco
https://twitter.com/kikumaco/status/546268728833216513


orz



ほんとかんべんしてください。
他分野の学問的知見に対する最低限の敬意と、ほんのちょっとの想像力をもってください。

僕はファシストらしい♪


さきほどあげた
美味しんぼ鼻血表現が差別である理由 - 地下生活者の手遊びに関連して



この「美味しんぼ鼻血事件」に関連して、僕が「ファシスト」「科学憲兵隊」などといわれた。このように言われたら反論しないわけにもいかず、もちろん他者をファシスト憲兵隊呼ばわりした方には議論に応じる責任があると考える。


この美味しんぼ鼻血話に関する新聞記事があり
http://mainichi.jp/select/news/20140429k0000e040156000c.html
ここのブコメ欄で以下のようなやりとりがあった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/news/20140429k0000e040156000c.html


id:unorthodox
ファシズム風評被害」とかいう言葉を乱用してきた者の責任は重いと感じる。疑うということ自体を「差別」と断じて封殺しようとする風潮をこそ危惧する。



id: tikani_nemuru_M
いい加減にしろ>id:unorthodox 「疑うこと」そのものを差別などといっているのはお前の卑劣な妄想だ。科学的知見に照らしてあからさまにデタラメだと何度言われればいい? お前はサヨでもリベラルでもなく差別屑。


論証したとおり、美味しんぼのあの表現は差別である。そうした差別表現に対して「 疑うということ自体を「差別」と断じて封殺しようとする風潮をこそ危惧する」と擁護するのも、これも論証したとおり悪質な差別であるので、そのように批判した。


すると、以下のようなツィッター上のやりとりがあったようだ(リンクは省略。RT済)。


unorthodox @unorthodox_TW
地下猫が突っかかってきた。https://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/461294205701079040
2014.04.30 10:57


unorthodox @unorthodox_TW
こいつこそただのファシストだろう。
2014.04.30 10:59


Carnot_1824: ファシストというか、科学憲兵隊では。 https://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/461294205701079040
2014.05.02 14:47


差別屑とまでいわれて直接反論してこないのが理解できない。反論をせずに、何の根拠もなくファシストやら科学憲兵隊呼ばわりするのも理解できない。差別者であると批判されて、反論するでもなく無根拠にファッショなどと決めつけることで、彼らには何か満足があるのだろうか?
差別的言論に対する反論をファッショ呼ばわりするのはネトウヨの使い古された手口のはずだが、彼らはいったい何者なのだろう?


いいかね、 unorthodox 、君のことを差別屑と呼んだ理路は、ブコメにも簡単に触れてはあったが、詳しくは以上のように説明した。君は間違いなく差別者である。君が自分のことをどう思っているか知らぬが、君は差別的表現を愚昧な方法で擁護する卑劣な差別者である。さて、君が僕のことをファシストと呼んだ理由を説明してもらおう。
Carnot_1824には僕を科学憲兵隊と呼んだことの理由を説明してもらおう。


差別を厳しく批判する言論に対して、ファッショだの憲兵隊だのという愚昧な言い返し(反論になっていないので、単なる言い返し)をする差別屑はいくらでもいる。僕には君たちがそれだとしか見えないのだが?


もちろん、訂正も謝罪も受け入れよう。君たちは完全に間違っているのだから、それがいちばんよい。
反論があるのなら、ツィッター上ではなく、ここのコメント欄かブログ記事のやりとり、でなければはてなハイクでお願いしたい。ちゃんと残るようにね。
反論から逃げて、お仲間うちで僕の悪口を言い合うのも賢いかもしれぬね。それは豚の賢さだがw

美味しんぼ鼻血表現が差別である理由


ひさびさだー。

                                                    1. +


差別というものを定義することは難しく、またその定義が逆に差別主義者が揚げ足を取ることを促進したりするので、あまり突っ込んだ定義をするものではないと思っている。
けれども
モデルを想定し、そのモデルケースが差別に該当するかどうかという思考実験は有益といっていいだろう。
というわけで以下の、差別デマによく見られるケースを想定してみよう。

  • 特定の社会集団に対して明らかに不利益になる言説を、あやふやな根拠で流通させる


もうちょっと具体的にいうと、「◯◯人は性犯罪を起こす率が高い」といったもの(◯◯人のところにオタクをいれてもドカチンをいれても同じこと)。こうした言説を根拠なしに流すのは典型的な差別であることは明白であろう。「××人には〜〜病が多い」なんかでも、就職差別や結婚差別を助長する。
では、
「俺は性犯罪をやらかした◯◯人を知っている。俺の周りでも◯◯人の性犯罪率は高いとみないっている」という伝聞(取材でもよい)を根拠として流すのはどうだろう?
これも先ほどの悪質なケースとほとんどかわりはあるまい。
もしかしたら、こうした怪しい伝聞情報を流すものも、自らの正義に基づいているのかもしれない。例えば
「◯◯民族が性犯罪率が高いと私は信じている。もしそれが間違っていても、社会的に対策することで誰も不利益を被らない」
などと。


無論、これは明らかに間違った議論である。
まず、事実かどうかまるであやふやなものに社会的な対策を行うことはリソースの浪費である。社会的リソースの浪費は再配分のための原資をそこない、それは弱者の生死に直結する。
もちろん、そもそも性犯罪率が高いとみなされた◯◯民族に対する侮蔑行為である。この言説によって被るさまざまな不利益は計り知れないだろう。また、あやふやなものに基いてとりえる対策は◯◯民族に対して抑圧的なものとなり、公的な介入によって「やっぱり◯◯は危ないんだ」と差別がさらに促進される。あやふや差別スパイラルだね。


もし、「◯◯民族は性犯罪をおこす率が高い」といいたいのなら、

  • 1)信頼できる統計的資料を提示する
  • 2)その統計に関し、貧困などの他の犯罪に関する要因を統計的に適切に除去し、性犯罪率の高さが確かにその◯◯民族の特徴であることを示す

以上のことは最低限でも必要となる*1


さて、
「俺は性犯罪をやらかした◯◯人を知っている。俺の周りでも◯◯人の性犯罪率は高いとみないっている」
という伝聞情報が公開されたら、心ある人はこれを「差別をやめろ。そのような根も葉もない風評でどれだけの被害があると思うのだ」と批判するだろう。
これに対し

  • 「危険はもしかしたらあるかもしれない。それを公表することは必要だ」
  • 「安全側にふるのに根拠はいらない」
  • 「「風評被害」とかいう言葉を乱用してきた者の責任は重いと感じる。疑うということ自体を「差別」と断じて封殺しようとする風潮をこそ危惧する」


などという議論で、もとの「◯◯民族は性犯罪をおこす率が高い。そういっている人がいる」という差別的言辞を擁護するものがあらわれたらどうだろうか?


問題外であることはすぐわかるだろう。


「危険はあるかもしれない」という言説そのものが、確定的に◯◯民族への不利益になっている。「あるかもしれない」という根拠で、◯◯民族へ確実にひどい不利益を与えるってどういうこと? 「ない」ということの証明は原則的にできないというのに。
そして不当な不利益がある以上、「安全側にふるのに根拠はいらない」も成り立たない。
「疑うということ自体を「差別」と断じて封殺」といわれても、誰も「疑うこということ自体を「差別」」だなどといっていない。◯◯民族に著しく不利になるような言説、差別を助長するような言説を、「そういっている人がいるんです」程度の論拠で垂れ流すことが批判されているのに。
この「あるかもしれないから公表してよい」「安全側にふるのに根拠はいらない」「 疑うということ自体を「差別」と断じて封殺しようとする風潮をこそ危惧」というロジックがまかりとおるのであれば、どのような支離滅裂な差別的デマをも否定することができなくなる。
「あるかもしれない」「安全に根拠はいらない」 「疑うということ自体を「差別」と断じて封殺」とかいう発言はこの場合は差別的言論の典型であると断言してよかろう。

                                                                  1. +


本論に入る。

  • 特定の社会集団に対して明らかに不利益になる言説を、あやふやな根拠で流通させる

これは、「美味しんぼ」の鼻血表現について明確にあてはまる。福島県の観光をはじめとした産業に与える影響は大きく、さらにいえば福島県出身者に対する結婚差別*2などへの後押しとなることは明白であろう。「美味しんぼ」という媒体の影響力はけっして侮ることはできず、特定の社会集団に対して明らかに不利益になる言説が、単なる伝聞(とおそらくは原作者の個人的経験)を根拠に大量にばらまかれたということである。


「あるかもしれない」「安全側にふるのに根拠はいらない」「疑うこと自体を禁ずるのか」などという反論は、それによって不利益を被る一般人*3がいる場合は無効。疑義を示す側に証拠を集める責任がある。そうでなければ悪質な差別と排除のロジックにしかならないことはすでに示したとおり。
鼻血がどうこういいたいなら、最低限でも鼻血が実際に有意に多いという事実(=データ)をもってきて、さらにストレスや食生活などの他の要因を排除しても確実に多いと示してからでなければならない。そうした手順を踏んで示された情報であれば、福島在住者にとっても有益なものとなろう。


よって、美味しんぼ鼻血話は差別的言論と考えてよい。表現者がどのような使命感にかられていようが善意だろうが、差別は差別。
これに反論するのであれば、

  • 「 特定の社会集団に対して明らかに不利益になる言説を、あやふやな根拠で流通させる」というのは差別にあたらない

もしくは

のいずれかの論証を要する。


ぶっちゃけ、差別の問題をちゃんと考えたことのある者なら、この事例が差別であることは明らか。こんなものを擁護するんじゃ話にならん。
もちろん、
朝鮮人は〜が多い」「生活保護受給者は〜が多い」「女は〜が多い」「オタクは〜が多い」とか特定の社会集団に対してあやふやな根拠でDIS言論を垂れ流しにするのは原則的にいって差別な。
ホントあたりまえの話。


最後に、美味しんぼ鼻血表現に対して怒りを表明している人々が、他の社会的弱者への不当な差別や偏見に対しても同様のロジック、同様の基準で怒りを表明してくれることを願う。
美味しんぼ原作者*4をはじめとして福島在住者への差別的言辞を弄する人々に対する怒りと不信はあるが、反原発という当然の主張に対して「放射脳」などと揶揄する人々に対する怒りと不信とて僕には強くあるのだ。

*1:1・2を行えばそうした言説を流布していいのかという問題はあるが、それはここでは本論ではないので棚上げしておく

*2:統計的根拠はないが、結婚差別が主に女性に対しておこっているように見えるのもジェンダー論の観点から極めて興味深いが、ここではつっこまない

*3:この「一般人」という後の選択は迷った。「 疑うこと自体を禁ずるのか」という言説で公権力(大企業もこれに準ずる立場であろう)を行使する立場の者が不利益を被ったとしても、もちろんガンガンやるべきであるから。いろいろ考えたし、これが最適とは思わないがここでは「一般人」という言葉を選んだ。歴史的社会的に普遍性があり、公権力を行使する立場の人を除外したよい言葉があったらお教えいただくとうれしい。「市民」だと歴史的社会的に限定されすぎるんだよね

*4:「男組」の雁屋哲がこうなってしまった、ということは本当に悲しい

被曝労働とリスク分配に関する覚え書き


メモのつもりだったがあげておく。
断絶と欺瞞 - kom’s logでのコメント欄における応答も兼ねて。


承前


1)原発は根本的に中央集権的・独占的・軍事的・差別的な技術で、ひとくちに言えばファッショ的な技術。
こーゆーファッショ的な技術があぼーんしてしまった場合のオトシマエをどうつけるかという問題。


2)基本的に、市民の被曝は「都市-地方」問題だし、労働者の被曝は階級の問題。
こーゆー問題を自由経済だの市場原理だのでなんとかしようとしても、階級的矛盾をこじらせるばかり。
なんつーか、オールドサヨク階級闘争史観がそのままあてはまっちゃうんじゃねえかぐらいの事態。


3)市場っつーのはよくできた装置で、資源化できるもの、使えるものはガンガン調達してきちゃうわけだ。ニンゲン存在というのも例外でなく資源として調達してしまう。
で、ニンゲンが手段化されてしまうのは止める必要がある。これを肯定しちゃうと、例えば貧困国の貧困な人たちから先進国の金持ち様が臓器を買ったり、奴隷を買ったりすることも肯定することになっちゃう。
被曝労働には本質的にそうした性格がある

つーわけで、原発推進にしろ廃炉にするにしろ、被曝労働を労働市場に全面的に委ねるのにはのれないなあ、と。


4)市場がうまく機能しない、あるいは機能しちゃ困る場合には公権力の出番となる。ここでid:D_Amonは国家の全面的介入を筋論として主張しているわけだ。


5)労働徴用のごとき全面的介入はどうよ? という批判は当然にありえる。現在もやっている被曝労働者の健康管理をもっと徹底することや、報酬の圧倒的増大(もちろん、中間搾取者にわたらないような方法であることは前提)という介入だっていいんじゃね? と。
なぜこれじゃ駄目なのか?

                                                                            1. +


6)仮にこのまま原発を推進していくとする。すると、このままずっと被曝労働者と原発立地へのリスクの押し付けは続く。推進側の責任者は自分が被曝するリスクなんて基本的には負っていない。現場、立地、労働者、そして未来にリスクを丸投げ。二次大戦時の軍部と同じですな。

                                                                            1. +


7)仮に全面的に廃炉にするとして、この場合でも廃炉解体で一時的にすさまじく多くの被曝労働者を必要とすることになる。で、廃炉を主張しているヒトタチは自分が被曝労働をするリスクを負ってるのかというと、リアルに議論した限りではどうもそうじゃないらしい。
「東電や政府の責任だ。なぜ我々が被曝労働をしなきゃならん?」


8)はいはい、仮に東電など電力会社の社員に被曝労働をさせるとしますね。でも、日本中の原発廃炉解体にはどうみても数十年単位でかかります。今の電力会社の社員に被曝労働をする責任があると一万歩くらい譲って認めたとして、未来の電力会社の社員にもその責任があるんですかね?
役人にやらせるにしても、同じ事ですよ。


9)だいたい、原発の電気を享受してきた現在に生きる僕や貴方に責任がなくて、電力会社の社員であるというだけで未来の人に責任があるんですか?
未来の人って、つまり僕らの「子供」ですよ。「子供を守る」んじゃなかったの?


10)とゆーわけで、「被曝労働については東電・政府がなんとかしろ」はまるで欺瞞的で話にならんのですね。原発推進側が無責任で差別的であることは自明なんだけど、こと被曝労働について考えれば、原発反対側も推進側を鏡で映したかのように無責任で差別的なんじゃないの?
「東電や政府の作ったリスクなんて知らん」
とか言いながら、実際には貧乏人や貧乏人の子供・孫に小銭ほうって被曝労働させるなんて、身の毛もよだつほど破廉恥だよな。
どのクチで「子供を守れ」といってるんだ? という話。

                                                                            1. +


11)原発に反対するということは、いままでの権力によるリスク管理・リスク分配のあり方に反対することだと僕は思う。
原発が嫌いなヒトって、独占資本だとか現代物質文明とかも嫌いなヒトが多いでしょ?
自分たちの世代のツケを後世に回しちゃいかんと思うでしょ?
なら、リスク管理とリスク分配のあり方についても変革しなきゃいかんですよ。


12)リスク管理やリスク分配なんてものは、本来的には為政者の発想なんですね。疫学とか統計なんかもそうです。でも、リスク分配のあり方を変えたければ、まずは現在はどのようなリスクがどう分配されているか確認しなければ話にならない。でもリスクの定量的評価って厄介なんだよねー。


13)ならば「リスクを強制的にかつ平等に分配してやれ」というのがid:D_Amonのいってることなわけです。
強制労働とか労働徴用とか見ちゃうとげーっとなるかもしれんけど、これはあくまで共同体によるリスク分配なんじゃないのかなあ。


14)「財産を平等に分配する」、と、「リスクを平等に分配する」はぜんぜんちがうよ。


15)また、リスクの分配によって、僕たち各個人に「当事者性」ってものが出てくるんではないかと思われ。例えば、いまげんざい、低線量被曝について適切な知識を県別で競ったら福島県の方がダントツでトップなんじゃなかろうかと思われます。当事者性という共通基盤を持つしか、同じテーブルにつく方法がないんじゃなかろうか。

                                                                            1. +


そんなこんなで、僕はD_Amonのいっていることに大枠として賛成、と言いたいところなんだけれども・・・・
被曝のリスクをあまりにも特別視しすぎてないかな?
もちろん、市民の被曝、そして被曝労働は典型であり象徴であるとも思うのだけれど。


例えば、節電にしてもリスクの不公平な分配を導き得る。
「電気足りないと人が死ぬ、は人質論法だ」
とかいう声も聞くけどさ、今年に実際に可能な「人が死なない節電法」というのを考える責任を政府や電力会社に全面的に押し付けてるのだとしたら、えらく無責任なんじゃない?


なににしろ、原発に反対するのなら、リスク分配については本気で考えるべきだし、D_Amonはそこに突っ込んでいるのは確か。
原発に反対なら、あれはネタや皮肉ではすまないと思うねえ。

てんかん患者運転問題に思う科学性と公正さ

宿題をやらなきゃならにゃーのだが、さきにこちらを。


承前

および、上記記事へのはてぶ


このあたりの議論において、てんかん患者への自動車運転免許取得を一律に禁ずる対策には根拠がなく、社会的な公正性を考慮しない愚策であることを簡単に論証しますにゃ。

定量的議論の欠如

リスクは定量化されなければ議論をすることはできにゃー。定量化すればそれで十分というわけではにゃーのだが*1定量化は議論の前提として必須ですにゃ。
特に、特定の疾病を持つ集団の自由を制限しようというのだから、制限を主張する側が定量的な根拠をだし、社会的な公正さを考慮する必要があるのは絶対的に必要な話ですにゃ。


ところが
ブコメを見るに、「てんかん患者を車に乗せるな」という立場のお方で、定量的な議論をしているヒトが見当たらにゃー。

  • 「危険だから乗せるな」

しかし、
急に意識を失うとか、運転不能な状態になってしまう疾病はてんかんに限ったことではにゃー。僕のような医学のシロウトが思いつくだけでも、高血圧症から派生する脳梗塞脳卒中ならびに心筋梗塞、糖尿病などが母数の大きなものとしてはあり、そもそも疾病ですらにゃーが老化も大きなリスク要因ですにゃ。
これらと事故発生率などを定量的に比較したうえで、なおかつてんかん患者の事故が有意に高くなっているかどうかの議論は必須なんでにゃーの?

公正性の欠如

他の疾病との比較だけではまるで不十分ですにゃ。
比較対象として、重大な自動車事故を過去に起こした、あるいは運転するのに不適格と考えられるようなこと、例えば 飲酒運転や過度のスピード違反などの危険運転行為、あるいは救護義務・危険防止措置義務などを怠るような行為を過去にした悪質なドライバーを考えてみますにゃ。もちろん、それらの行為をすれば運転免許は取消をくらいますにゃ。
しかし

  • 最長5年の欠格期間を経れば、危険運転で他人を殺していても運転免許の再取得は可能

id:nekora
普通自動車運転免許とは、時速100kmで街中を動き回る1t超の鉄塊を連続数時間に渡り充分コントロールできる身体機能と技能を有する事を特に認められた者にだけ与えられる特殊資格。身分証明書では無い。


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/thir/20120415/p1


上記コメントにはスターが48もついてますにゃ。コメントの内容は一面の事実であることに異存はにゃーのだが、その一方で、酒のんでヒトを何人轢き殺して交通刑務所から出てきても、また運転免許って交付されるものなんですにゃー。


特定の疾患【だけ】に【予防的】に運転免許の制限を求め、実際に危険運転や深刻な事故をおこした健常者は欠格期間をおけば運転免許を取り放題、っておかしくにゃーかな?
また
先ほどの定量性の議論とも関わるけど、危険運転を過去に行った運転者が深刻な事故を起こすリスクというのは、相当に高いと予想されますにゃ。

中間まとめ

というわけで、てんかん患者の自動車運転を一律に認めるべきではない、という立場のお歴々の議論は

  • 他の疾患などとの定量的なリスク比較がされていない
  • 健常者は欠格期間さえおけば、悪質な運転者でも免許がとれることと比べて不公正

これでは、他者の権利を制限するには話にならにゃーほどお粗末なんでにゃーの?
定量性(つまり事実)をきちんと考慮せず、公正性(つまり社会規範)もぶっとばして、「やつらに運転をさせるな」と権利制限を求めるのが差別でなかったら何なんでしょうにゃ。

運転免許の必要性

冒頭にリンクしたThirの議論では、運転免許の重要性を説いた記事ですにゃ。これに対して

  • いや、別に俺は運転免許がなくてもちゃんと生活できてるよ

という趣旨のコメントがつけられていますにゃー。複数あるのでリンクはしにゃー。


「俺は私はダイジョブだった」
という言明にいったいどーゆー意味があると思っているのかよくわかんにゃーんだな。
ワタミのシャチョさんが、佐川急便ドライバーで寝る間も惜しんで働いて開業資金をためて、「俺はこういう働き方をしてダイジョブだった。」などとのたまうのを連想してしまいますにゃー。
数字を出して議論してほしいにゃー。


例えば、広島県ハローワーク求人で調べてみると*2
ハローワークインターネットサービスで「一般フルタイム、広島県」で検索すると結果11038件。「普通自動車免許」を追加して検索すると3309件、大型一種281件、大型二種26件、普通二種120件があり、ちょっとガテン系のクレーンなどの要資格の求人は玉掛67件、クレーン類56件などざっと150件以上。普通免許も駄目となると、他にも制限されるべき資格は多くなると思われますにゃ。
自動車運転が駄目となると、どうみても3分の1以上の仕事に就労ができにゃーですね。地方の場合は、通勤に自動車が事実上必要なところも多いことは考慮しなければならにゃー。


運転手はもちろんとして、営業職とか、ある程度危険な工場勤務なんかも駄目ということになっちまいますにゃー。ワーキングクラスにはそーとーキツイにゃー。暮らしが成り立たん事例もでてくるでしょうにゃ。

  • 居住地域、職種などによっては、運転免許制限で就労ができなくなる可能性がある


「僕は免許なくてもダイジョブ」とか言う前に、これくらいのことは考えてほしいものですにゃー。


先ほど、危険運転で他人を轢き殺しても欠格期間を経れば免許がとれるという制度的な事実に触れましたにゃ。これは、居住地域や職種によっては運転免許が生活のために必須ということにも関わっていると僕は思うのですにゃ。加害者にも家族がおり生活があり、それを破壊してはならにゃーでしょう。
まあ、危険運転についての罰則が甘いという話はあるかもしれにゃーが。

疑似科学の臭い

てんかん患者も個々の病態は様々であり、どうみても運転はまずいだろうという病態もあれば、過去の病歴はあってもほとんど問題ないとかんがえられる病態もあるでしょうにゃ。
そもそも、「健常者」であっても運転は絶対ダイジョウブということはにゃーわけだ。僕は本日免許更新をしてきてゴールド免許2度目の更新だけど、「まあ多分ダイジョウブ」で自動車を運転してますしにゃ。
危険と「まあ多分ダイジョウブ」との間に明確な「線引き」はできなくとも、明らかに真っ黒に危ない事例と、「まあ多分ダイジョウブ」と判断できる事例の区別はできるものですにゃ。


これは、疑似科学批判界隈ではおなじみの論法でしてにゃ。定量的な議論を拒否して、明確な線引きを求めたり、あるいはゼロリスクを求めるってのは実に疑似科学っぽい臭いがプンプンなのよ。
特に、先ほど述べたように他のリスクとの比較をせずに、てんかん患者だけにゼロリスクを求める、つまり【選択的】にゼロリスクを求めるというのは、差別であると同時に疑似科学でもあるのではにゃーだろうか?

おわりに

まとめると
てんかん患者だけに一律運転免許を制限せよという議論は、

  • 特定の患者集団の権利制限という重大な問題であるにもかかわらず、定量的な議論がなく、危険運転をしても免許取得できることと比べて公正性がなく、さらに運転免許のもつ社会的な意味を考慮していない暴論である。さらに選択的にリスク・コスト負担を求めるという意味では、疑似科学的であり差別でもある。


以上の議論に対して
「車社会・自動車文明の存続を前提とした議論で駄目だ。」
という反論もあると思いますにゃー。


長期的には自動車文明はやめたほうがいいという意見には僕も賛成。【脱・車社会】大いに結構。
しかし、それにはそれなりにカネも手間も時間もかかりますにゃ。例えば地方の公共交通網を再整備してつかいものになるようにしなければならにゃーが、これひとつとってもどれだけのカネと手間がかかるか・・・


脱・車社会に向かって進むとこの社会が決意したとして、その目的を達成するために特定の社会集団(ここでは、てんかん患者という特定の患者集団)にリスクやコストを押し付けるのは許される話ではにゃー。


てんかん患者は、車社会の矛盾のスケープゴートにされているのではにゃーだろうか?
社会を変革するにしても保守するにしても、特定の集団を犠牲にしてはならにゃー。

*1:例えば、低線量被曝関連での「正しく怖がれ」は問題を定量性に還元しているように思える

*2:ツイッターでの議論でたまたま広島県の数値がでてきたのでこれを出すというだけ。地方のモデルとしてはそんなに悪くないと思うので

欠如モデル批判の文脈での欠如モデル芸


実に結構なご忠告にこころより感謝いたします。>id:tari-G


しかし、今回の発端となった

において貴方は僕に対してだけでなく、不特定多数の読者に対し

これがきちんとした批判に見える人は残念ながら(人文社会科学を含めた)科学の素養に欠けている可能性が非常に高い。やはり高校で人文社会科学や科哲が必須だよなぁ


と発言しているのですから、僕の理解力はさておき、アレを読んできちんとした批判に見えてしまった諸賢が「ああ、私には確かに素養が欠けていた」と自覚できるような指摘、どの書籍のどの部分をどういう点に気をつけて読めばよいのかの指摘をするべきだと思われますがいかがか?


あのエントリを肯定的に評価している、少なくとも僕よりもはるかに賢そうで専門分野もちゃんと持っている方はそれなりにいらっしゃるようです。そうですね、例えばあなたがそのエントリを高く評価したことのあるid:pollyannaさんなどもあのエントリを肯定的に評価していますよ。あれが全然だめならば、それを具体的に指摘しないのはまずくないですか?


しかも、もとの pseudoctorさんのエントリは、欠如モデルに関連したものです。欠如モデルに関連したエントリのブコメで「素養が欠けている」と不特定多数をdisるのは、 小心者の僕等にはとても考えられないような大胆不敵な言動です。相当な覚悟がおありなんですよね?
具体的な根拠の挙げられない他者批判(しかも不特定多数向け)など、自分を貶めるだけの行為であり、僕にはとてもできません。


さあ、専門分野をきちんともった方たちに、「 ああ、私には確かに素養が欠けていた」と納得させる具体的な指摘をしてください。僕も勉強させていただきます。



三者へ説明

というエントリのブコメ、メタブコメでのやりとりを再掲

tari-G いってみれば, 橋下レベル, 話にならない
(特に社会科学の)素人が専門外を批判する典型。これがきちんとした批判に見える人は残念ながら(人文社会科学を含めた)科学の素養に欠けている可能性が非常に高い。やはり高校で人文社会科学や科哲が必須だよなぁ 2012/02/16



tikani_nemuru_M
「欠如モデル」という言葉が知識不足への批判を封じるために使われてる印象。理系文系を問わず、基本的な知識不足で因縁をつけてくる輩はガンガン潰してよいと思う/>id:tari-G 勉強したいので書籍名か論文名よろしく 2012/02/16



tari-G
id:tikani_nemuru_Mさん、昔から申し上げているようにあなたの場合は、通信制でもいいので一度どこかの学部に入って体系的に学問に触れるのが一番良いと思います。つまみ喰いしても意味がないようですし。 2012/02/16



tikani_nemuru_M
id:tari-G 経済的に不可能です。以前からあなたが僕に知識不足を指摘するたびに、具体的な書籍名・論文名をお尋ねしていますが一度足りとも答えをいただいていません。適切な書名とポイントを是非ともお教え下さい。 2012/02/17


その後、ハイクに移行。当エントリは以下のハイク投稿への応答。

id:tari-G
id:tikani_nemuru_Mさん。
 
『tikani_nemuru_M :tari-G 経済的に不可能です。以前からあなたが僕に知識不足を指摘するたびに、具体的な書籍名・論文名をお尋ねしていますが一度足りとも答えをい ただいていません。適切な書名とポイントを是非ともお教え下さい。 2012/02/17』
 
http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fb.hatena.ne.jp%2Fentry%2Fpseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com%2F2012%2F02%2Fp02-04-2.html
 
なるほど、だったら、NHKの高校講座と放送大学の聴講がお勧めです。見るだけなら無料でできますから、録画して空いている時間にご覧になればいいと思います。
 
私が地下猫さんに体系的学習の必要性を繰り返し指摘しているのは、昔から見てきて、地下猫さんの場合、要するに標準的な人文社会科学的思考のコードに全然馴染みがないのがまずは一番の問題であって、本を数冊読めば解決するというものではないと思っているからです。
 
高校講座も馬鹿にしたものではなく基礎的知識を確実に押さえる点では非常によくできています。
 
ま た、放送大学では、「専門分野を体系的に学ぶ」を見ればわかるように、体系的学習にも配慮されているので、それに沿って科目を選択すれば、おそらくかなり しっかりとした学習ができるのではないかと思います。教授も一般の大学同様玉石混淆ですが、充実度はかなり高いと思います。
 
是非、一度チェックされることをお勧めします。そして、騙されたと思って、じっくり取り組まれたら、間違いなく成果はあるだろうと思います。
 
http://www.ouj.ac.jp/kamoku/expert/
by tari-G 2012/02/17 0:54:11 from web 返信



id:tari-G
tari-G
付言するなら、放送大学(にかぎりませんが)で学習する場合、地下猫さんの場合で重要なのは愚直さになると思います。
 
1科目15コマですが、1〜15コマを、飛ばさないで、丁寧に、テキストを脇に置きながら、じっくり一つづつ、1ぺーじづつ愚直に消化していくことが、一番大事になるだろうと思います。
 
地下猫さんの場合、中途半端さが常に気になるところですが、こういった取り組みを体系的に、おそらく20教科ぐらいこなせば、違った世界も見えてくるのではないかという気がします。
by tari-G 2012/02/17 1:13:59 from web


http://h.hatena.ne.jp/tari-G/299900072323161785

ねえねえ、tari-Gセンセイ

tari-Gセンセイの場合、知識や素養の不足を理由に他者を否定することはあっても、具体的にどういう知見に基づいてその発言をしているかがさっぱりわかりません。


結局、これにもお答えいただけていません。これに限らず具体的な指摘をもらったことはありません。
「多分野にわたり山のように文献があるテーマを全く未消化で駄文を書く」
とまで言っておいて、具体的な文献の指摘ができなかった方のアドバイスを信用するなどというのは実に馬鹿げた話です*1
一般論として、具体的な根拠のない「お前らは知識不足」を連発する方が何らかの信頼を勝ち得ることができるとお思いでしょうか?

おわりに

しかも欠如モデル批判絡みの文脈で、不特定多数へ向けた「素養欠如批判」という、あまりにも見事なブーメラン道化芸なのでとりあげてみましたにゃー。
もちろん、具体的な文献名の指摘などは望めにゃーだろうけど。

*1:まあ、放送大学で勉強するのは悪くなさそうだけどね