科学はかならず被害者の力になる


応答をしなければならにゃーのだが*1、応答内容と深く関連することなのでこちらをまずあげておきますにゃ。


さて、上記にリンクした2つの記事のあいだには、一読して矛盾がありますにゃ。


PTSD心的外傷後ストレス障害)は過去の心的外傷が原因で発症しますから、

現在進行形の事態に対してPTSDを持ち出すことはそもそもおかしな話です。

また、あたかも「放射能を心配しすぎて」PTSDになるかのような説明は

間違っています。「心配しすぎて」PTSDになったりすることはありません。

PTSDはレイプ、虐待、戦争体験、交通事故などなど、生命が危険にさらされる

現実の出来事の後に生じる疾患です。

今、原発被害に関してPTSDを論じるのであれば、PTSDの予防ですから、

「安全な場所に避難すること」と「事実を伝えること」が必要です。


http://d.hatena.ne.jp/eisberg/20110515


と、現在進行形の事態に対してPTSDはありえないこと、放射線被曝を心配してPTSDになるのはありえないこと、PTSDは生命が危険に晒される現実の出来事のあとに生じること、総じて原発事故とPTSDとの関連を否定的に捉えている記事ですにゃ。


ところが


 母はJCOの敷地から約80メートル、事故現場の転換試験塔から約130メートルの地点にあった父の工場で被ばくし、その推定被ばく線量は約40ミリシーベルトであった。


 事故当日(9月30日)の深夜3時ごろ、母は激しい下痢に襲われた。翌日には多数の口内炎が現れた。数日して父の工場は再開されたが、元来仕事好きで、工場の主戦力であった母は寝たり起きたりの状態になり、仕事に行こうとしなくなっていた。今から思えばPTSD患者に典型的な事故現場からの回避症状なのだが、当時はそのような知識も十分持っていなかった。外から見ていると、母はひどい倦怠感に襲われているようで、体を動かすのがいかにもおっくうそうだった。たいていは、パジャマ姿のまま居間で横になっている。


中略


十月の末頃から、母は胃の痛みを訴えるようになった。医者に行ってみると、胃潰瘍が3箇所で活性化し、体重も6キロ落ちていた。原子力事故を身近に経験したストレスが母を蝕んでいたのである。だが、原因がわかれば治療すればいいだけである。約2週間入院し、退院時に撮った胃カメラでは、潰瘍はほぼ消失していた。ところが、退院後も、母の様子は入院前と変わらなかった。一日中、パジャマ姿のまま、寝たり起きたりの生活である。そののろのろとした動きが、うつ病になってしまった昔の友人によく似ていたため、精神科への受診を勧めると「うつ状態」と診断され、入眠剤抗うつ剤を処方された。


この状態で約2年半が経過したが、この間一度自殺企投を起こすなど、症状は一向に改善されなかった。そこで東京の専門医を受診したところ「JCO事故によるPTSD」と診断され、通院している病院や主治医もこの診断に沿った治療を行ったため、母は急速に回復した。


2011-05-21


この事例では、事故直後からPTSDの典型的な症状があらわれ、そしてPTSDという診断に沿った治療によって「急速に回復」しておりますにゃ。
つまり、
現在進行形の事態に対してPTSDはありえないこと、PTSDは生命が危険に晒される現実の出来事のあとに生じること、という自称大阪の精神科医の見解を真っ向から否定していることになりますにゃー。


ありゃりゃ、こりゃどっちを信じればいいんでしょうかにゃ?

「大阪の精神科医」とやらは信用できない

PTSD(心的外傷後ストレス障害)の定義をご覧になれば歴然としたことにゃんが、放射能に関する強い恐怖心があれば、PTSDを発症してもなーんにもおかしくにゃーと思えますにゃ*2。これだけでももう自称「大阪の精神科医」とやらが信用できにゃーです。


ほかにも、あの「精神科医」の発言はソースもわかんにゃーし、そもそも文科省の文章 ※PDF注意を思いっきり誤読しておりますにゃ。文科省の文章には、津波地震などの災害とPTSDの関わりは確かに書いてあるし、放射線心理的ストレスが放射線被曝より有害であることも書いてありますにゃ。でも、放射線PTSDと直接は書いてにゃーです。
はてブでもツィッターでも、ソース不明で誤読しまくりのこの陰謀論めいた与太記事を鵜呑みにしちゃっているお方が結構いたけど、こまりものにゃんな。
そして、単なる与太というだけでなく、この記事の立場は大きな問題を抱えてもいるのだにゃ。


ま、とにかく、自称「大阪の精神科医」については、ソース不明のうえ、発言内容も信用ならにゃー。ここはどう見ても大泉さんの記事のほうが信用性が高いってのは確実なところでしょうにゃー。実名ライターが自分の母親の病気のこと、裁判のことでウソってのもほとんど考えにくいしにゃ。


避難先、あるいは低線量被曝地域に居住している人たちが様々な自覚症状を訴えていますにゃ。それらのすべての症状が心理的なものだと断言するつもりはカケラもにゃーのだが、そのほとんどは心理的なものに起因するのではにゃーかな?
特に
チェルノブイリ事故において、被曝地域で18歳以下の子供を抱えた女性にのみ、DSM-III-Rという診断基準での精神疾患のリスクが高かったという論文もあってにゃー*3。もちろん、ガキを抱えた♀がこの事故で精神的な失調状態になることを、笑いものにしたり非難したりということは話にならにゃーですね。これは、明らかに原発事故の被害ですにゃ。実に深刻な被害にゃんね。

精神的な被害の深刻さを見誤るな

鼻血や下痢などの症状に際し放射線被曝との関連を示唆しない(あるいは否定する)医師を「御用」だのなんだのと忌避する動きが低線量被曝をしたひとたちの一部に見られるようですにゃ*4


放射線被曝を原因としていない症状を、放射線被曝のせいと決めつけてしまうことは、適切な治療の機会を逸してしまうことであり、これは個々人にとって実に危険なことですにゃ。例えば、大泉さんのお母さんの事例で、被曝を起因とする生物学的な問題だと思い込んでPTSDだと認めなかったら、さらなる自殺企図など生命に危険がおよぶ事態になっていたかもしれませんにゃ。


原発を推進したいヒトタチ、あるいは容認のヒトタチは、こう言うかもしれにゃー
「低線量被曝の被害なんて、しょせん、精神的なものにすぎないでしょ?」


「しょせん」? 「〜にすぎない」?
とんでもにゃーことだ。
チェルノブイリ事故の精神面への影響は生物学的なリスクに比べ非常に大きかった」とIAEAが公式にいっているし、この見解は他の国連機関や科学者共同体にも共有されているようですにゃ。これは「チェルノブイリ事故の被害はたいしたことない」ということを意味しにゃーのだ。その多くの部分は社会的・心理的なものであったけれど、それは確実にチェルノブイリ事故の広範で深刻なる被害なのですにゃー。


精神的に追い詰められれば、人間は健康を害し、時には死に至るのだにゃ。前回エントリでは、避難リスクは被曝リスクの2500倍、などとざっくり書いたけど、ようするに避難リスクに代表される、心理的・社会的に構成されるリスクというのは、被曝リスクよりも圧倒的にでかいというのがその趣旨でしてにゃ。チェルノブイリ事故の健康被害の実態は、そのほとんどが社会的・心理的なものだったってのはガチだろ。


困ったことに
この国は、精神的な被害を軽視する国だにゃ。民事の損害賠償請求裁判においても、精神的な被害は雀の涙にしかならにゃーことが多いようだにゃ。大泉さんのお母さんの事例でも、精神的な被害は裁判で認められなかったにゃ。まあ、精神的なものを軽視するってのは親方日の丸だけではにゃーだろうけど。にゃるほど、人の心を踏みにじり放題のこの国では自殺も多いわけだにゃ。


しかし
被害の大きな部分を占める、精神的な被害に関する速やかなる調査・手当て・補償は必ずされなければならにゃー。これは本当に深刻なんだにゃ。
個別の精神的失調についての因果関係を証明するのではなく、精神疾患における疫学的な因果関係*5が認められれば(まず間違いなく真っ黒にでる)、原発事故の精神的な被害への補償の道が開かれるはずだにゃ。
そして、これこそが東電と政府の責任をもっとも正面から問うものであると信じますにゃ*6
その技術的あるいは運用論的・リスク論的側面においても僕は原発に否定的だけど、なにより心を持った社会的な生き物であるニンゲンに受容できる技術ではにゃーと考えますにゃ*7


一応いっておくけど、ガンなどの健康被害を軽視するってのはありえにゃーですよ。そもそも、健康被害を軽視したら、社会的・心理的に被災者をさらに追い詰めることになるのは必然もいいところなのだにゃ。精神的被害の重視ってのは、被曝被害の重視と論理的に結びついているのだにゃ。
大事なのは被害の実態なのですにゃー。

被害から目を背けさせるのは何か?

そして、さらなる問題があるのだにゃ。
心理的・社会的な被害を軽視しているのは、原発を推進したいヒトタチだけではにゃーのだ。原発に反対しているヒトタチ・原発をやめたいヒトタチにも広く見られることなのではにゃーだろうか? いや、心理的な被害をもっとも軽視しているのは、実はこのヒトタチなのではにゃーのか?
だってさ
例えば下痢などの症状を放射線被曝を原因と見立てにゃーだけで「信用出来ない」「医者はしょせん政府とグル」などとおっしゃるお歴々がいるんだぜ*8。短時間に40mSv被曝した大泉さんのお母さんの激しい下痢・口内炎・倦怠感・胃の痛みなどの症状ををPTSDだと診断した医師が、こうしたヒトタチに何と言われるか? 多くの症状が心理的・社会的なものだと学者が発言したら、いったい何と言われるか? 心理的な被害が大きいことを前提にして「補償のためには調査を」と発言したら、いったい何と言われるか?
僕には目に見えるようにゃんぜ*9


被曝の影響を過大視し、心理的な被害を軽視することは、被害の実態から目をそらすことであり、被害の総体をかえって隠蔽することにもなるんだにゃ。
放射線医学的な被害に拘泥して、危険を増大させているのは何なんでしょうにゃー?
原発事故の被害実態から目を背けているのは誰なんでしょうにゃー?

奴らの認めざるをえないことを認めさせようぜ

先ほども書いた通り、チェルノブイリで精神的な被害が放射線による被害より圧倒的にでかかったというのは、IAEAをはじめとする国連諸機関や科学者共同体が認めていますにゃ。明らかな精神的被害については医師の診断書もとれますにゃ。


チェルノブイリでは避難住民の寿命が65歳か ら58歳に低下しました。がんのせいではありません。鬱病アルコール依存症、自殺などのためです。移住は容易ではありません。ストレスが非常に大きくなります。そうした問題を把握するとともに、その治療にも努める必要があります。さもないと住民の皆さんは自分が単なるモルモットだと感じてしまうでしょう。」*10
と発言している山下俊一なら、喜んで事故の精神的被害について勤勉に調べてくれることでしょうにゃ*11


原発が巨大利権のカタマリだってのは事実にゃんが、その運用はタテマエ上は国際機関の公式見解に従わなければならにゃーってのも事実。被害への補償も原発の運用の一環であり、科学的になされなければならにゃーってタテマエを、政府も司法も決して否定することはできにゃー。


科学性(つまり、事実と論理)を放棄してしまったら、権力を相手に被害者救済のためのイデオロギーゲームをしても勝ち目があるわけはにゃー。被害を痛ましく思い、当然の補償を望むのであれば、ここではなによりも科学を武器にするしかにゃーのだ。そして、精神的被害のでかさは科学的に証明されているといってよく、IAEAをはじめとする国際機関も科学者共同体も認めていますにゃ。「奴ら」はそれを認めざるをえにゃー。それが科学的に事実とされれば認めざるをえにゃーのだ。
奴らの認めざるをえにゃーことを、補償においても奴らに認めさせればいいんだにゃー。

最後に


現実にそこに被害があり
そして
僕たちが被害者によりそう意志を持っている限り


科学はかならず被害者の力になる

*1:必要な応答は別稿でかならずやります

*2:PTSDの診断基準が現場ではどうなっているのかわからんので、おかしかったら突っ込んでください>精神科医のかたがた

*3:http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9356574

*4:もちろん、こうした医師への忌避そのものが精神的なストレスを原因とするものかもしれない。話は何重にもこんがらがっている

*5:被曝を受けた地域・避難地域などで普段より明らかに特定の疾患が増えると、そこには絵医学疫学的な因果関係があるといえるだろう。相関関係とのちがいとかいう話はここでは面倒なのでパス

*6:精神的被害をどこまで補償するかの線引きはヒッジョーに難しい問題だが

*7:この話も詳しくは別稿になるかな。宿題たっぷりぷり

*8:ツイッターではけっこう見かけた。実際にどれくらいたくさんいるかは知らんけど

*9:僕は実際にエア御用呼ばわりされておりまつ

*10:ドイツ「シュピーゲル誌」のインタビュー

*11:一応いっておくと、放射線被害の影響が疫学的にあれば、山下はそれを認めざるをえない。科学的調査はそうそう思い通りになるものではない

避難リスクは被曝リスクの何倍?

の直接のつづき



僕たちのリスク評価というのは、それなりに歪みのあるものですにゃ。例えば、「リスクにあなたは騙される」という書籍において、以下のようなリスク評価のバイアスがあると紹介されていますにゃー。

リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理

リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理


1)大惨事の可能性⇒(時間軸上に分散された少数の死者でなく)一回の事件で多数の死者が出る場合、リスクの認識が高まる
2)馴染み⇒よく知らないあるいは聞いたことがないリスクは、余計に心配する
3)理解⇒活動あるいは技術の働く仕組みがよく理解できないと、危険意識が高まる
4)個人による制御⇒(飛行機の乗客のように)被害の可能性が自分で制御できるレベルを超えていると感じると(車の運転のように)制御できると感じる場合より心配する
5)自発性⇒リスクにかかわらないことにすると、余計に恐ろしく感じられる
6)子供⇒子供が関与すると、より深刻になる
7)未来の世代⇒リスクが未来の世代に脅威を与える場合、余計に心配する
8)犠牲者の身元⇒統計上の抽象概念でなく身元のわかっている犠牲者だと、危険意識が高まる
9)極度の恐怖⇒生じる結果が恐怖心を引き起こす場合、危険意識が高まる
10)信用⇒関係している機関が信用できないと、リスクは高まる
11)メディアの注目⇒メディアで扱われることが多ければ多いほど、余計に心配になる
12)事故の歴史⇒過去に良くない出来事があると危険意識が高まる
13)公平さ⇒一方に利益がもたらされ、他方に危険がもたらされる場合、リスクの順位が上がる
14)利益⇒活動あるいは技術のもたらす利益が明確でないと、明確である場合よりリスクが大きいと判断する
15)復元性⇒何かがうまくいかなかったときに、その結果を元に戻せないと、リスクは高まる
16)個人的なリスク⇒自分を危うくするものであると、リスクは高まる
17)出所⇒人工のリスクは自然起源のリスクよりリスクが大きい
18)タイミング⇒差し迫った脅威ほど大きく感じられ、未来の脅威は割り引かれる傾向がある


P102〜103


この他にも、リスク評価に際してどういうバイアスが見られるかについての記事をリンクしておきますにゃー。


どういう事故や事件がリスク評価を高めるかのリストを見てみると、原発事故による放射能汚染のリスクについては、ほとんどのリスクを高める要因にあてはまり、ほとんど「数えトリプル役満」状態にゃんねえ。


さ、では読者のみにゃさまに質問。
こうした認知の歪みを指摘された状態で、原発事故の放射線リスクと避難リスクのどちらがどれくらい大きいと思いますかにゃ? このあと比べてみるから(実は比べるやり方がある!)、ちょい目をつぶってイメージしてみましょうにゃー。


・・・さ、イメージできましたかにゃ? んじゃ、いってみましょうかにゃ。

放射線被曝でどれくらい寿命が縮むか

放射線リスクも避難リスクも、双方ともに健康リスクである以上、数値的な比較が可能ですにゃ。で、この比較方法は、低線量被曝リスクにおける閾値なし直線仮説というものの意味がちゃんとわかれば、簡単な四則演算でその概算値がでるものなのですにゃ。
ま、シロートのリスク計算なんて、桁が違ってなければ上出来なのよ。言い換えると、数値の意味を理解していれば、武田邦彦センセイよりはまともにリスク計算ができるということですにゃ*1


ここで必要な知識は、ICRP(国際放射線防護委員会)の提出している放射線リスクで

  • 1)積算100mSv被曝につき、0.55%、一生のうちにかかる致死性のガンのリスクが増える
  • 2)そのリスクは、被曝量に比例する

これだけ。
あと、必要なのは、致死性のガンに罹患した場合、一人あたりどれくらいの寿命短縮があるかの見積もりにゃんな。こんなのテケトーにやればいいんだけど、一応ガン統計を見てみると、ガン死亡時平均と平均寿命の差は7〜8年くらいですにゃ。これに、ガン以外の放射線リスク、あるいはガンにもともとかかるけど被曝によってガンになるのが早まるリスクがあること、あるいは子供の放射線感受性が高いことなどを考慮して、ざっとこれを3倍し、ガン一件あたり25年ほど寿命が低くなるとしてみましょうかにゃ。


すると、集団が100mSv被曝したとすると

  • 25(年)×0.0055=0.1375年 (日数にすると50.2日)

の寿命が短縮するということになるわけですにゃ。うーん、シンプル。
リスクと被曝量が比例するから、10mSv被曝では、0.01375年(5.02日)の寿命短縮リスクということになりますにゃー。


100mSvあたり0.55%の致死ガンリスクアップというのは、全年齢を平均したものだから、乳幼児だったらこのリスクを5〜10倍、年寄りならこの数分の1とみればいいんでにゃーかな?


あ、そこのチミ、眉にツバつけてるな? でも、考え方は間違ってにゃーぞ。
では一応、専門家の作った10mSv被曝あたりの寿命短縮表がのっている書類をリンクしておきますにゃ。


で、上記書類に年齢別のリスク評価があるけど、全年齢では10mSv被曝につき4〜5日の寿命短縮リスクがあるということのようですにゃ*2。乳幼児のリスクはこの4〜5倍。


というわけで、ここで政府の設定した暫定基準値である年間20mSvの被曝の健康リスクを見てみると

  • 20mSv被曝につき、平均して約10日寿命が縮む。乳幼児は50日寿命が縮む。

避難ではどれくらい寿命が縮むか

では、避難リスクはどれくらい寿命を縮めるものなのでしょうかにゃ?


シュ:事故による精神的な影響についても調査しているのか。


山下:もちろんです。チェルノブイリの経験から、心理的な影響が非常に大きいことがわかっています。チェルノブイリでは避難住民の寿命が65歳か ら58歳に低下しました。がんのせいではありません。鬱病アルコール依存症、自殺などのためです。移住は容易ではありません。ストレスが非常に大きくな ります。そうした問題を把握するとともに、その治療にも努める必要があります。さもないと住民の皆さんは自分が単なるモルモットだと感じてしまうでしょ う。


山下俊一インタビュー ドイツ「シュピーゲル誌」
http://ex-skf-jp.blogspot.com/2011/08/blog-post_9917.html


というわけで、山下によるとチェルノブイリ避難者は7年ほど寿命が低下したみたいにゃんね・・・・・って、みにゃさま、どしたの?
・・・ああ、山下なんて信じられないって? うむ、にゃるほど。嫌われてるもんにゃー。



んじゃ、これ見てくださいにゃ。

以前にもリンクしたやつにゃんね。信頼性がとっても高い書類ですにゃ。
この10Pに「職業層別平均余命のグラフがありますにゃ、これね。

平時のエゲレスで職業層によって平均寿命が6〜7年違うのがわかりますにゃ。絶対的貧困が健康や寿命に影響をあたえるのは当然として、最近の「社会疫学」なる学問分野は、相対的貧困などの社会的排除が健康に大きな影響を与えるということを実証しつつありますにゃ。
平時において職業層別で寿命が6〜7年違うのだから、チェルノブイリのように突然何の準備もなく避難を強制され、そのまま故郷に帰ることもできず、さらに絶望的な被曝リスクを吹きこまれた人々の寿命が7年縮まるなんてことはおかしくもなんともにゃーですね。


山下が信用できないという感覚をどうこうできるものではにゃーし、リスクについての桁を過少に発言したこともあるようですにゃ*3。しかし、チェルノブイリ避難民の平均寿命7年低下というのは、社会疫学的に確立された知見を考慮すると、十分に信頼してよい数字と思われますにゃ。海外の専門家の目にもさらされる外国雑誌のインタビューだしにゃ。


というわけで、ここでは【チェルノブイリ強制移住の避難民は7年(約2500日)の寿命が縮んだ】という数字を仮に採用しておきますにゃ。他に説得力のある数字があったら、いつでも差し替えるから教えてね♪

寿命短縮に換算した暫定的なリスク比

年間20mSvの被曝という前提で

  • 平均的な被曝による寿命短縮10日に対して避難民の寿命短縮2500日
  • 乳幼児の被曝による寿命短縮50日に対して避難民の寿命短縮2500日

もちろん、これらは暫定的な概算だにゃ。僕、ドシロウトだし。
チェルノブイリを参考に寿命に換算したリスクは、乳幼児限定で50倍、一般的には250倍くらい避難リスクのほうがでかいってところにゃんな。年寄りだったら1000倍くらいだろか?
これは単年度で計算してあるから、2年目からの被曝量がゼロとはいわにゃーが、何年間も20mSv/年の暫定基準値を続けることを容認する専門家は僕の知る限りいにゃーし、そんなのはトンデモにゃーことだ。除染することが前提。


さて、みにゃさまのイメージしていたリスク比はどうでしたかにゃ?
リスク評価における認知の歪みを実感していただけたのではにゃーでしょうか?


もちろん、ロシアと日本ではいろいろと条件がちがうから、これがそのまま日本にあてはまるというつもりはまったくにゃー。しかし、社会的な排除がなされる場合、数年単位で寿命が縮むことがありえるのはまあ固いところのようですにゃ。

今の日本における社会的排除が、当時のロシアよりマシだと言い切る自信は僕にはにゃーんだな。つまり、もしかしたら日本の避難リスクはチェルノブイリよりもヒデエかもしれにゃーんだ。


しかし、話はまだおわらにゃーんだね。今したのはリスク総量の比較だにゃ。
リスクというのは分配されるものなのですにゃ。

避難リスクはどのように分配されるか?

答えを端的に言えば

  • 避難リスクは、まず弱者に分配される

となりますにゃ。


避難先で知的障害者が何人か亡くなっているという記事がありましたにゃ。キャッシュしか残ってにゃーようなので、記事の最後に置いておきますにゃ。



身体や精神に病気や障害を抱えているヒトタチにとって、避難リスクは健康に著しい影響をあたえ、しばしば致命的といえますにゃ。知的障害者と家族にとって、避難がどういうものであるかについては

これを読むことですにゃ。凄まじい文章だよ。必読。



福島・双葉病院で患者と医療スタッフが引き離され、結果的に患者が20人以上亡くなった*4のもこの典型例といえますにゃ。
原発がどうなるかまったくわからなかったあの状況で、避難を強制したこと自体は仕方のにゃーことだろう。それを責めようというのではにゃー。
しかし
心身の健康に不安を抱える者にとって、避難とその長期化がいかなるリスクをもたらすのかは認識しなければならにゃーだろう。


次にどういうヒトタチにリスクが配分されるか?
貧乏人だろね。


例えば、ホテルで生活する避難民と学校の体育館で生活する避難民の、どちらが多くのストレスと健康リスクを抱えるかはいうまでもにゃーだろ? カネやコネがある人が、体育館で避難生活をおくると思うかにゃ?


福島からの避難者が、職場復帰を先延ばしにしたまま解雇される事例もでてきていますにゃ*5。子供を連れて不案内な土地に避難し、そうそう簡単に再就職できるものなのでしょうかにゃ? 先ほどリンクした「健康の社会的決定要因」にも、就業と健康状態のはっきりとした関連が指摘されているのですけどにゃー。


そして、社会的なネットワークを持っているかどうかも、健康に大きな影響を与えることもわかっていますにゃ。


逆に言えば、避難・移住リスクを心配しにゃーでいいのは、以下のようなヒトでしょうかにゃ。

  • 1)家族みんなが心身ともに健康であり、適応力がある
  • 2)十分なたくわえがある
  • 3)土地に依存しないスキルがあり、どこででもしっかり稼げる
  • 4)土地に依存しない人的ネットワークを持っていて、孤立はありえない


こういうヒトと家族だったら、被曝リスクだけを心配してもいいのではにゃーでしょうか。福島を中心とした放射能汚染が深刻であるのは事実だし、無視出来るようなリスクではにゃーですからね。
しかし
心身の健康に不安があるとか、カネがないとか、コネがないとか、そういう事情を抱えたヒトタチには、優先的に確実にリスクが大きく配分されるということになるでしょうにゃ。

生活の質、という観点

最後に、生活の質、いわゆるQ.O.L.(クオリティ・オブ・ライフ)という観点を導入してみますにゃ。
一般的に病気はQ.O.L.低下の大きな要因となりますにゃ。ただ、順番としては病気が原因となってQ.O.L.が低下するわけで、病気にならにゃーヒトのQ.O.L.は低下しにゃーですね。アタリマエ。
しかし
避難・移住が健康リスクを引き起こす場合は、Q.O.L.がまず低下して、それが病気に結びついてくるわけにゃんね。つまり、病気になっていなくても Q.O.L.は一般的に低下するわけだにゃ。


ということは、避難・移住などにともなう社会的排除から起きる健康被害による寿命短縮と、放射線被曝などの純粋に生理的要因における健康被害による寿命短縮が同レベルで起きたと仮定すると、社会的排除による Q.O.L.の低下は桁違いにでかい、という論理的な帰結となりますにゃ。


そして、 Q.O.L.の充実を誰よりも必要としているのは、子供なんだよ。
Q.O.L.が充実してるってのは、要するに幸せってことにゃんから。


娘溺愛歴7年のバカ親としては、ガキのためにどんなことでもしてやろうという気持ちはよくわかるんだけどにゃ、無理して Q.O.L.下げてはガキのためにならにゃーってのもキモに銘じておかにゃーと。そのためには、自分の健康もカネも仕事も人的ネットワークも必要だにゃ。

まとめ

  • 健康リスクを寿命に換算すると、避難リスクは20mSv被曝リスクの250倍。乳幼児に限っても50倍
  • 「生活の質 Q.O.L.」の低下リスク倍率は、さらに桁が違う
  • 健康リスク・ Q.O.L.低下リスクは、健康弱者・経済弱者・社会的弱者に確実に優先的な配分がなされ、ただちに生命の危機を招くこともある


最後に
ガキのためを思うなら、リスクを比較しましょう。この駄文が参考になれば何よりです。
で、東電と政府にはガッチリ除染と補償をさせましょう。

資料 毎日新聞の記事


東日本大震災知的障害者、相次ぐ急死 避難先で発作など 苦痛、伝えにくく
 ◇震災後に環境一変
 東日本大震災東京電力福島第1原発事故で避難した高齢者らが慣れない避難先で死亡する「災害関連死」が問題化する中、原発周辺の入所施設から避難した知的障害者の死亡が相次いでいる。毎日新聞の調べでは少なくとも11〜67歳の男女4人が死亡し、中には津波で夫が行方不明となった妻が知的障害者の長男を災害関連死で失うケースもあった。専門家は「知的障害者は苦痛を伝えにくい上、多くは持病などを抱え、長時間の移動や環境の変化が致命的影響を与える場合もある」と警鐘を鳴らす。【野倉恵】
 原発から約5キロの福島県富岡町の知的障害児施設「東洋学園」に入所していた小野卓司さん(当時23歳)は震災翌日の3月12日、入所者ら計約200人と同県川内村の系列施設へ避難し、避難指示範囲の拡大に伴い夜に村内の小学校へ移動。周辺住民と一緒の慣れない環境からか落ち着かない入所者が相次ぎ、13日に同県田村市の通所施設(定員40人)に移った。28日夜、持病のてんかんの発作が起き、服薬で収まったが、間もなくあおむけのまま動かなくなり、29日正午過ぎ、救急搬送先で死亡。逆流した食物でのどを詰まらせたとみられる。
 「本当に(頭の中が)真っ白になりました。3週間で2人が……」。同県新地町に住む母みね子さん(55)は嘆く。漁師の夫常吉さん(56)も震災当日に海へ漁船を見に行ったまま戻ってこない。
 卓司さんは幼いころ呼びかけても振り向かなかった。障害が判明した時、夫婦は「一緒に育てよう」と励まし合ったが、卓司さんは外に飛び出しては家に戻れなくなった。小学校に上がる時、東洋学園に入所。障害は重く、成人後も着替えや入浴に介助が必要だったが、みね子さんは学園行事に必ず出かけ、盆や正月の帰省時は常吉さんが車で連れ出した。車中や母の手料理の並ぶ食卓で卓司さんはいつも笑顔だった。
 「ずっと続くと思っていた」日々は震災で一変した。「でも、私は2人に守られた気がするんです」とみね子さん。多くの家が津波で流された中、自宅は無事だった。今、卓司さんと一緒に施設にいたやはり障害者の次男(22)が気がかりだ。「いつもお兄ちゃんが近くにいた。今あの子はぽつんとしているのじゃないかと」
 東洋学園では他に千葉県鴨川市の青年の家に集団で再避難した20日後の4月27日、小学6年の久保田菜々さん(当時11歳)が授業中に施設前の海でおぼれて死亡している。


     ■
 福島県相馬市の障害者支援施設「ふきのとう苑」では大内恵美子さん(当時54歳)=写真・姉の美恵子さん提供=が急性循環不全で急死した。原発事故で協力病院の医師らが避難したため3月23日、他の入所者と群馬県渋川市の施設へ6時間かけ車で移動。30日午前7時過ぎ、受け入れ先の職員がたん吸引した際は異常なかったが、同8時ごろ朝食を運ぶと動かなくなっていた。
 「何で、と最初は思いました」と、福島県飯舘村の姉美恵子さん(62)。恵美子さんは長年同村の実家で暮らし、美恵子さんの3人の娘も「えみちゃん」と慕った。歌や踊りが好きで、村の盆踊りで3年連続で仮装の賞をとったこともある。
 40代になるとてんかんの発作が頻繁になった。両親が相次ぎ亡くなり、風呂場やトイレでも倒れ目が離せなくなり施設に入所。骨折で車椅子に乗り声 も十分出なくなったが、美恵子さんが週1度訪ねる度に笑いかけてきた。「恵美子は今は両親のところへ行ってゆっくりしているのだと思いたい」と美恵子さん は言う。
 他にも富岡町知的障害者施設「光洋愛成園」の67歳男性が3月12日に福島県三春町の避難所に移動、4月15日に群馬県高崎市の国立障害者施設に入り、5月5日に高熱のため病院に入院して6日未明、肺炎のため亡くなった。厚生労働省は障害者施設利用者の災害関連死を「把握していない」としている。


毎日新聞 2011年6月17日 東京朝刊

*1:武田センセイよりまともなんて何の自慢にもならにゃーけどな

*2:実は、この書類は昨夜見つけたんだけど、もともとの概算していた数字が上の通りでほとんど一致してたので、自分でもびっくりして同居人に自慢しちゃったよ

*3:「100μSv/hを超さなければ健康に影響を及ぼさない」とかいう桁間違いの発言をやらかしているようだ。ただ、100μSv/hだと年間で876mSvの被曝となる。年間100mSvまでは大丈夫という何度も繰り返した他の発言との整合性がとれず、これは意図的なものではないと判断できる。まあ、専門家が桁を間違えるのはもってのほかだけどな。山下の住民への説明はパターナリズム全開で、ときには国家の指針に従うことを強要したりと、リスクコミュニケーションとしてはgdgdだが、基本的におかしな数字はあげていないと見ている

*4:この事件については、http://www.kotono8.com/2011/03/18futaba.html を参照のこと

*5:http://www.nikkansports.com/iphone/general/news/p-gn-tp0-20110814-820101_iphone.html

差別落書への対応について


承前


id:y_arimが渋谷駅での「視覚的ヘイトスピーチ」を塗りつぶした行為に対して、id:Thscが程度のひくいいちゃもんをつけましたにゃー。これがいかに程度が低くかつ矮小なものであるかを確認しつつ、差別落書への対処を考えてみますにゃー。

まるで的ハズレであることの確認


件の張り紙を「晒す」ことで得をしたのは誰で、損をしたのは誰か。
得をしたのは、まず、自分(たち?)の目論んだ方法よりはるかに広くメッセージを拡散してもらえた差別セクト。そして、「差別を許さない!」と自らの善性をアピールする機会を得た反差別セクトである。
一方損をしたのは、本来なら読まずに済んだ敵対的なメッセージを、ご丁寧に意訳付きで突き刺された中国・朝鮮(・韓国)人である。


http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811


これがそもそもまったく駄目。
差別セクトと反差別セクトの結託を指摘し、本当の被害者である中国・朝鮮(・韓国)人の味方であると高らかに宣言したはずなのに、ブクマコメで当の在日や中国系の方にきついダメ出しをくらっておりますにゃー。

id:cyunchol
在日韓国人として言われせてもらえれば、「決然と無視」されて放置された方が、はるかに損。社会が差別を差別としてきちんと排除する姿勢を示すことは有益。解決する気もないくせに馬鹿言ってんじゃねぇって感じ。


id:sillyfish 差別, これはひどい
もともとこの「メッセージ」をいかなる意味でも向けられていないあなたなら、いくらでも「決然と無視」できるだろうよ。端からあなたには「無効」だからね。戯言けるな


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811/p1


他にも当事者ほかからブクマコメでいろいろ適切にも批判されているわけにゃんが、批判に対して「悪意で歪曲」だの「はてサにとって反差別がファッション」だのと、わめきちらすってのはどうしようもにゃー。

  • 「これは差別セクトと反差別セクトの結託。損をしたのは中国・朝鮮(・韓国)人」

         ↓

  • 当の中国・朝鮮(・韓国)人からキツイ駄目だし

         ↓

  • 「はてサが悪意で歪曲した。はてサは反差別がファッション」


という、醜悪を絵に描いたがごとき流れるような豚言動を御開陳なさってますにゃー。
うっわー。
これだけで、id:Thscがなんのために、誰を利用して、この駄文を書いたのかはダダ漏れ。言っていることにハナも引っ掛ける必要がにゃーのは明らかにゃんね。ほとんどネット産業廃棄物なみの文章にゃんが、反面教師としてリサイクルを試みますにゃー。


差別落書はただの落書きではない


差別落書という言葉がある。
これに対し「差別犯罪たるべきものを落書きなどと軽い言葉で呼ぶのはけしからん」という議論もしばしば聞かれる。
が、的外れである。
差別落書は「落書き」でなければならない。
なぜか。
差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。
それを「落書き」と扱うことで、取り合うべき内容もないと烙印を押し、メッセージを無効化できる。これが犯人にとってはいちばん嫌なのだ。だから、差別「落書き」はただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去されるべきなのだ。


http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811


はい、駄目。
差別落書への対応は、単なる落書きへの対応と同じにしてはならにゃーんだ。

  • www.pref.tottori.lg.jp/secure/224574/02差別落書対応要領.pdf ※PDF注意

他にも地方自治体の差別落書対応マニュアルはネットで見られるけど、だいたい同じようなものですにゃ。
即ち

  • 事実確認⇒記録⇒現場処理・関係諸機関への報告⇒分析・対応

などは差別落書の対応としては必須にゃんね。


「差別「落書き」はただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去され」てしまうと、記録も関係諸機関への報告も分析・対応もなされにゃーだろ? これらのことをちゃんとしなければ、差別落書なんてやり放題ではにゃーか。

記録の重要性

特に、差別落書を記録し、しかるべき機関にそれらの記録を集積しておくことは重要であると考えますにゃ。
なぜか?

  • 差別主義者は、都合の悪いことを【なかったこと】にするのが大好きだから


だいたい、歴史修正主義ってのも、都合の悪いことを【なかったこと】にする下衆な欲求のままに事実をねじ曲げた結果にゃんからねえ。事実の記録と集積なしには、声のでかいだけの恥知らずどもが大手をふるだけに終始するでしょうにゃ。
つまり、差別落書が「ただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去され」るべきというのは、差別主義者をアシストすることにしかならにゃーわけ。恥知らずのウソツキの味方にゃんな。


そして、集積された記録(ある意味ではデータ)は分析や対応の役に立つわけにゃんね。特に、教育というのは差別落書への対応の核となるものでしょうにゃー。

反差別教育の有効性

反差別教育(=人権教育)については、その有効性を疑問視するどころか、かえって有害なんじゃねえのという意見があるようですにゃ。
しかし、


人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知っ た。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教 育なんかないほうがいい」


 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。


 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩 などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわ かっているからです。


 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひ どい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。


人権教育の問題点 - Whoso is not expressly included


金明秀が「「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩 などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっている」と断言しているんだから、これはちゃんと根拠のある話のはずですにゃ。


そして、これらの「 被差別部落への差別的態度が明らかに弱い」という状況へ導く人権教育の中身というのは、被差別部落の歴史と差別の実態がどのようなものであったか、そしてそれらは決して許されないものであるという明確なメッセージにゃんね。

  • それらは許されないというメッセージとともに、差別の実態を伝える反差別教育(=人権教育)は有効である

差別的メッセージを否定的に【上書き】が可能

実際に、部落解放同盟の主催する展示などで、記録済みのひどい差別落書が写真やテキストとともに公開展示されておりますにゃ。id:Thscの理屈では、これでは被差別部落民が損をすることになるはずにゃんねえ。


差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。

このカス理屈がThscの主張の主要要素にゃんが、彼の理屈が正しいのなら、部落解放同盟が部落差別主義者と結託していることになりますにゃー。
アホくさ。


部落解放同盟が差別落書などの記録を公開展示しているのは、先ほど述べた反差別教育、つまり「 それらは許されないというメッセージとともに、差別の実態を伝える反差別教育」の実践の一形態なのですにゃ。
しかるべき文脈に置けば、卑劣な差別落書もその持つ意味を転換することになるわけにゃんね。


「 差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。」などと抜かすThscのような馬鹿も現実にいるけど、善意に解釈しても差別的な言動についてまともに考えたことがまったくにゃーんだろ。差別落書にしろ、ネットへの差別的な書き込みにしろ、

  • 差別的言動を行う者が期待しているのは【自分たちのしている差別は正しい】という内容が伝わること

なのですにゃー。
少なくとも、差別的言動をしても誰にも反論されにゃーという状況。何の騒ぎにもならにゃーという状況は、差別言動をする者にとっては「自分たちの言っていることは正しい。この社会に受け容れられている」ということの確認にゃんね。
「これこれこういう差別的言動がありましたが、本当に差別発言をする奴は卑劣でどうしようもないですね」
という差別発言を否定的に上書きするメッセージの拡散こそ、ああいう馬鹿どもの嫌がることなのだにゃ。差別発言といえども、どういう文脈に乗せるかによってそれは反差別のメッセージになりえるという、ごくごくアタリマエもいいところの話ですにゃ。
文脈による意味の転換という基本的なことがわからにゃー輩は、字が読めにゃーのとほぼ同じだと思いますにゃ。で、こういう文盲が攻撃的ってのは救いがにゃーよな。

差別落書はなぜ速やかに隠されるべきなのか?

差別落書への対処マニュアルにおいて、差別落書をすみやかに人目にふれにゃーようにするのは重要ですにゃ。なぜなら、落書というのは「こういう落書をするのは卑劣であり許されない」というメッセージとともにそのままにしておくのが極めて困難だからですにゃー。
差別落書をそのまま放置することは、「こういう落書をすることは許される」というメッセージにしかならにゃーですね。差別落書の周囲に「こういうことをしてはいけない」などとさらに落書するわけにはいかにゃーからね。


言ってみれば、ここに【落書というメディアの特異性】があるといえるのではにゃーでしょうか?
落書にはこういう特異性があるので、差別落書は速やかに人目から隠されなければならにゃーわけだ。


しかし、差別落書を含む差別的言動を言論で取り上げることはこの限りではにゃーよね。なぜなら、言論においては「差別を否定的に上書きする」ことが可能だからですにゃ。
もちろん、差別を否定的に上書きするってのはなかなかにムツカシイことではあるので、それなりに気をつけてやる必要はありますにゃ。

今回のありむーの行動にゃんが、はてブでの反応も含めて「差別を否定的に上書きする」ことに、少なくとも失敗はしてにゃーと僕は判断していますにゃー。むしろ、ありむーのキャラもあいまって、この事例についてはそこそこ成功してるんでにゃーの? まあ、ネットでこういう行動をすることには危うさもあるし、異論もあるかもしれにゃーが、僕は支持する。

差別落書への対処

差別落書については、被差別部落関連で多くの事例があり、部落差別落書については西日本を中心にそれなりの対応が公的になされるようになっておりますにゃ


しかし、東日本で、しかも外国人差別の落書という事態に対し、「確認・記録・報告・分析・対応」というマニュアルはまだまだ徹底されてにゃーように思えますにゃー。JRにしても、差別落書にそういう対応をしてくれるとは思えにゃー。
まあ、各都道府県の人権センターでは外国人差別落書へも対応してくれるようではありますにゃ。ありむーもまずそのあたりの機関に申し入れるのが本筋ではあったのかもしれませんにゃ。
僕も差別落書をみたらその手の機関にまず通報するつもり。で、どういう動きをしてくれるかを確認するってところかにゃー?


とはいえ、差別落書を含む差別的言動を、ネットで否定的に上書きして拡散する、という手法を僕は否定できにゃーんだな。落書については特異性があるとはいえ、言論の俎上にのせた上で否定的に上書きってのはアリだと考えますにゃ。
なるべく言論でやるべきだと思っているし、言論の自由を支持する身としては、こうでにゃーと整合性がとれませんにゃー。
ま、いまの状況を考えると言論でやっていられる余裕があるか、という話もなくはにゃーのだが。

おまけ ヘイトスピーチとは暴力のこと

Thscのタワゴトについて、主なところは潰しましたにゃ。その上、細かいところまで突っ込んでいたらいくらでも突っ込む箇所があってやってられにゃー。とはいえ、どうしても見逃せにゃーところをひとつだけ突っ込んでおきましょうかにゃ。


さて、ここまで執拗に「ヘイトスピーチ」と鍵カッコに括ってきたのは「ヘイトスピーチ」なる語を認めないからである。
ヘイトスピーチ」なる語は、相手を絶対悪とする完全な決め付けを行うためだけに用意された語だ。自分の思いのままに相手を一方的に糾弾するやり方を正当化するための術語であり、非常に悪質なレッテルである。
裁けば差別は消えてなくなるのか?なくなるわけがない。第二第三の差別が無限に引きも切らず現れる。差別との戦いは殲滅戦ではない。撃破して も弥縫策でしかない。対立する者の主張をまずもって把握し、しかるのち軋轢を解体し、差別の根源から解消していかねばならない。相手を差別主義者と断ずる にせよ、差別主義者として生まれついたわけではない者の、差別主義以前の心情の表明をも読まねば解決はない。
ヘイトスピーチ」なる語は、そんな理想を捨てたことを意味する。対立者の訴えの全てを一顧だにする価値無きものと切り捨て、自らの立場を絶 対とし、問答無用で圧し潰す横暴極まりない処断主義に堕したことを意味する。極めて浅く一面的だ。正義を掲げて敵を排撃するという心地良い一面に傾倒する 者はナチスでありポルポトである。


http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20110811

あのな>馬鹿
「一顧だにする価値無き」ものってのはあるんだよ>馬鹿
大人が大勢で小学生のところにでかけて「ゴキブリは出ていけ」とわめきちらすことのどこに「一顧だにする価値」があるんだ?
この手の連中の心情をいちいち考慮しなきゃならにゃーのか?
大切なのは被害者の心情なのではにゃーのか?
必要なことは、まず連中を黙らせることだ。
子供のところに押しかけてゴキブリ呼ばわりするような連中を、「問答無用で圧し潰し」黙らせることが、最低限必要なんだにゃ。
まず暴力をやめさせる。
暴力をやめたら、その心情でもなんでも考慮してやる、というのが順序というものだにゃ。


以上。
Thscは差別についてまともに考えたことはまったくにゃーと断じる。
何も考えてにゃーカスがタワゴトをいったので、少しでもものを考えたヒトタチが批判したら、「はてサがー」「反差別セクトがー」と、これまた的ハズレでな泣き言をたれ流しているだけ。具体的・論理的な反論がまったくできにゃーので、属人的・党派的に誤魔化すだけ、醜悪で矮小なカス。
ここで挙げた以下の論点にまともな反論はできにゃーことも予言しておく。たぶん「反差別セクトがー」「はてサがー」くらいしかいえにゃーだろ。

  • 在日や中国人から駄目だしくらってもそこはシカトではてサのせい
  • 差別的言動を否定的に上書きできることを考慮していない
  • 一顧だに値しない言動はある

ICRP陰謀論のごときものについて

宗教学者島薗進氏が、ツイッター上で『放射線被曝の歴史』(中川保雄著)という書籍を紹介していたので、これには注目しておりましたにゃ。島薗氏はこの書籍の結論部をブログで紹介されていますにゃー。


価値の高いと思われる絶版本をブログで公開していただけるのは実にありがたいことだと感謝ですにゃ。
ただ
紹介されている放射線被曝の許容量基準が変遷してきたことの理由について、僕の知っていることと少なからず齟齬があるので、カウンターの情報をここに掲載させていただきたく思いますにゃー。

ICRPの性格について


2)核兵器開発・核軍拡政策にそう被曝管理を最大の目的とした時期(1950-58年)

アメリ原子力委員会の主導の下に国際放射線防護委員会(ICRP)が作られ、戦後の国際的被曝防護体制が再編成された。核兵器放射線による遺 伝的影響の問題が、社会的かつ科学的に大問題となり、「安全線量」の存在を認める耐用線量の考えは放棄せざるを得なかった。しかし、新たに導入された「許容線量」の考え方でごまかしがはかられ、「安全線量」が実際には存在するかのように宣伝された。」


中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(1) | 島薗進・宗教学とその周辺


とありますにゃ。これではまるでICRPメリケン原子力核兵器産業利権の下請けみたいにゃんな。
ここがそもそも僕の知っていることと違う。違うので紹介しますにゃ。


1928年の国際放射線学会の第二回総会で、国家代表でなく、その方面の専門家の個人的な集まりという形で委員会が組織され、放射線防護の基礎的な指針を各国に勧告する作業をはじめた。これがいま有名になっている国際放射線防護委員会(略称ICRP)のはじまりである。


武谷三男編「安全性の考え方」(岩波新書。1967年刊・絶版)P121


もちろん、その起原は専門家の個人的な集まりだったが、正式な組織化をされるときにはアメリ原子力委員会の主導の下にあった、ということもありえる話ですにゃ。実際にはそんなところかもしれにゃーですね。


「許容線量」概念の意味合いについて

ところが、先程引用した
「 しかし、新たに導入された「許容線量」の考え方でごまかしがはかられ」
という記述は明らかに武谷の言っていることと矛盾するのですにゃ。


そもそも【社会的な概念としての許容量】は日本の核物理学者・武谷三男日本学術会議のシンポジウムで提唱したものですにゃー。ではその概念が提唱された経緯はどういうものであったか?
1950年代初頭の放射線被曝の許容量概念は、いわゆる「閾値(しきいち)」と同じ、つまりそれ以下では被害が生じないものだとされていましたにゃ。ところが、放射線が人体に与える影響について新しい知見がどんどんと加わり、また、広島・長崎の被爆者には何年も健康ですごした後に原爆症を発症する例が多数いる事実も確認されましたにゃ。白血病の発症率が放射線被曝量に比例して増大することが知られ、微量の放射線により遺伝障害が起こり得ることも知られてきますにゃ。
ここに至って、日本の良心的な科学者は【閾値としての許容量】という考え方を放棄し、武谷三男が【社会的な概念としての許容量】を提唱するのですにゃ。



放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。


その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかも知れないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラス もある。そこで、有害さとひきかえに、有利さを得るバランスを考えて、【どこまで有害さをがまんするかの量】が、許容量というものである。


つまり許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。


P123  引用者が適時改段


この【社会的な概念としての許容量】が政治的に持ち得た意味は何だったか? 
その帰結は

  • 原水爆実験(特に地上における)の激減

なのですにゃー。
原水爆実験という原子力の軍事利用が人間の生活にとって無意味である以上、低線量といえども放射線被曝を強いられるいわれなどどこにもにゃーわけだ。言い方をかえれば、原水爆実験に許容量など存在しえない、ということになりますにゃ。
武谷三男の【社会的な概念としての許容量】という考え方は原水爆反対運動に理論的な根拠を与え、

この運動が日本国民の原爆ヒステリーだという米国の非難と闘うことができた。
同 P124


これらの記述は、「新たに導入された「許容線量」の考え方でごまかしがはかられ」という中川保雄氏との記述と真っ向から対立いたしますにゃー。

「許容量」概念の変遷について

また、中川によると、許容量概念の変遷は以下のようになりますにゃ。


四、被曝を人々に強いる側がその都合に合わせて基準を定めてきた歴史p202-3


「ヒバクとその防護の歴史においておさえられるべきことは、まず第一に核兵器の開発と核軍拡、および原子力開発とその推進策が、世界の各地でいろい ろな種類の、膨大な数にのぼるヒバクシャを生みだしてきたことである。第二に、その犠牲の上に核・原子力を進めてきた当の国家や原子力産業が、その推進策 に添う放射線防護策をも作り上げてきたことである。第三に、その被曝防護策の基礎にあるのは、放射線被曝による生物・医学的影響に関する科学的評価である が、それもまた、ヒバクの犠牲を強いる人たちによって、自らの利益にかなうようなやり方で評価されてきたということである。


今日の放射線防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ひばくがやむをえないもので、我慢して受忍すべ きものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである。


しかし、この歴史の実態と真実は、これまで明らかにされることはほとんどなかった。なぜなら、「放射線防護」に関するほとんどすべての解説や説明 が、ヒバクを強制する側の人々によってもっぱら書かれてきたからである。ヒバクを押しつけられ、犠牲を強いられる人々の側から、ヒバク防護の歴史が語られ ることはこれまでなかったのである。


その結果、上のような基本的性格を持つ放射線防護基準が、「国際的権威」とされるICRPによって「科学の進歩によりなされた権威ある」国際勧告として示 され、それを受けた形で原子力推進派がそれぞれの国々の法体系の中にその国際勧告を採り入れるという仕組みが築き上げられてきたのである。


中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(1) | 島薗進・宗教学とその周辺


このあたりについても、やはり「安全性の考え方」と付きあわせてみましょうにゃー。


国際的な会合へ出席した日本の科学者は、全国民の原水爆禁止のよびごえに支えられて、許容量理論と死の灰の測定結果とを出して奮闘した。このような活動がしだいに実って、許容量の考え方も日本のものにきわめて近いものにだんだんに移ってきた。
ICRPは年を追って許容量勧告を次々に出していったが、それを見てゆくと考えの変化を見ることができる。


1954年には、許容量は

現在得られている知識に照らして、生涯のいずれの時期にも感知されうる程度の身体障害を起こさないと思われる放射線

と定義されている。


最近の1956年の新勧告では、許容量が、放射線のもたらす利益と危険度のバランスによってきまることを強調するとともに、最大許容量という表現が必ずしも適当でないことさえ認めている。最大許容量の数字は昔の10分の1にまで年を追って低くなってきたばかりでなく、その基本的な考え方で、武谷氏の理論がほとんど全面的にうけ入れられていることを知るのである。


許容量概念の変遷は、

  • 中川によれば「核・原子力を進めてきた当の国家や原子力産業が、その推進策に添う放射線防護策をも作り上げてきた」結果
  • 武谷によれば「 全国民の原水爆禁止のよびごえに支えられて、許容量理論と死の灰の測定結果とを出して奮闘した」結果

ということになりますにゃん。
で、僕は武谷の見方を支持しますにゃ。
理由は、

  • 放射線被曝の許容量は一貫して下がり続けている


「核・原子力を進めてきた当の国家や原子力産業が、その推進策に添う放射線防護策をも作り上げてきた」のなら、国家や原子力産業の都合の良いように被曝許容量が増大してきたはずだにゃ。しかし、現実には1950年代から現在まで、一貫して許容量は厳しくなり続けているんだにゃー*1


武谷三男という学者は、戦前には反ファシズム活動で二度も検挙され、戦後は原水爆や公害に反対して活動し、実績を残している学者だにゃ。つまり「親米」や「御用学者」というスタンスには程遠い学者にゃんね。そして、反核運動ICRP勧告の策定についての生き証人でもあるわけだにゃ。
こういう学者の言っていることと真っ向から矛盾するうえに、実際に被曝基準値が下がり続けているという事実を併せて考えると、中川のICRPに対する評価はだいぶ偏っているのではにゃーかと思われるのですにゃ。

他の機関の見解との整合性

これはブログ記事を書いた島薗氏にも聞いてみたいところなんだけど、仮にICRPが中川のいうとおりに「核・原子力を進めてきた当の国家や原子力産業が、その推進策に添う放射線防護策をも作り上げてきた」組織だとして、それではWHO(世界保健機関)やUNSCEAR(国連科学委員会)などの他の国際機関、あるいは各国の疫学、放射線医学などの学会がICRPの提唱しているモデルを原則的に承認しているのはどういうことなんでしょうかにゃ? これらの諸機関や諸学会には、健康状態や疾病などについてのデータがガンガンあがってくるはずだから、ICRPの言っていることがおかしければそれらのデータと整合性がとれなくなってくるんでにゃーの?
いろんな国際機関や各国の学会はみな「御用学者」の巣窟で、原発マフィアの鼻薬をかがされているんだろか? 


ICRP勧告の基準値は、疫学データに基づいて算出されており、原則的にデータは公開されているわけですにゃ。こういうデータを検討できる能力をもった人はたくさんおり、その中には市民よりの献身的な人もいるだろうし、あるいは野心をもった人もいるでしょうにゃー。
もし仮にICRPの基準値を算出する基になったデータ解釈に偏向があったとしたら、市民よりの献身的な学者がこれらのデータを見逃すことはなく、野心をもった学者がこれらのデータ不備をつくことで影響力を増そうとする、ということになるのではにゃーでしょうか?


科学的なことがらというのは、公開して討論するという基本が押さえられてさえいれば、恣意的で偏向した解釈が大手をふってまかりとおるということはおこりにくいものなのですにゃ。もし国際機関が恣意的で偏向した見解を出していたら、その地位をねらう野心的な学者にとっては実にオイシイ話にゃんねえ。能力が高く、それゆえ野心的な連中はかならずおり、彼らを科学的議論の場からすべて排除することなんてできるわけがにゃーのだ。


個々の科学者のモチーフは良心でも野心でもいいわけだにゃ。科学ってのはそういう個々の勝手な思いで駆動していくわけで、それこそ科学が信用に値するところですにゃ。
他の国際機関や、諸学会がICRPのモデルや勧告を基本的にうけ入れられているってのはでかいと思うんだけどにゃー。

結論

紹介された部分で判断する限り、中川保雄「放射線被曝の歴史」最終部分のICRPによる防護基準への評価は信頼に値しない。特に「新たに導入された「許容線量」の考え方でごまかし」「原発推進策に添うように被曝防護の考え方を手直しするため、リスク-ベネフィット論を導入し、リスクの「科学的」過小評価と社会的利益(ベネフィット)の強調で、許容線量被曝の受忍を被曝労働者のみならず一般人にも迫った」あたりの記述はひどい。率直にいって、【ICRP陰謀論】のごときものを感じる。
他にもICRP不信の論調を一部に見るが、陰謀論的思考で組み立ててられておりあまり根拠が無いように思える。

*1:1934年には、職業被曝の基準値が「1週間につき1レム」(=約500mSv/年)で、積算被曝量という概念もなかったようだ

俺のハピネスは俺のハピネスだ、誰がどう言おうとな


前々回の記事につけられたid:harutabeブコメをきっかけに、harutabeと何度か彼のブログコメ欄でやりとりをしておりましたにゃ。で、今回はその彼の最新のトラバに対する応答エントリですにゃー。
もともと、コメ欄に書くつもりだったけど長くなったし、他の問題ともつながるのでこちらであげてトラバを送ることにしましたにゃー。よって、猫かぶり文体で書いてにゃーです。

>また、コミュニティをぶち壊したことの落とし前、というのは、なんのことでしょう?


生命と健康、財産をなるべく補償するということだが。


http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20110625/1308976377#c1309024263


 ああ、これはとてもわかりやすいですね。まったく賛同します。言い換えると、「政府や東電は被災者の生命と健康、財産を最大限補償せよ」となりましょうか。そして、tikani_nemuru_Mさんの主張としては、そのための最善手が「移住を抑止する*1」ことであると。なぜならば云々。筋は通っていると思います。そして、その筋の通った主張に対する私の回答は、繰り返しになりますけれども、「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」であり、「国家権力が特定のコミュニティのありかたを、特定の幸福感や特定の思想を、言祝ぎ称揚することは看過できません」です。統計には社会的に正当と認められるストレスしか載ってきませんし、その正当なストレスを前提に被災者の人生のサンプルを措定することは、そのロールモデルから逸脱した人間を疎外し搾取することに直結します。居留にインセンティブを与える、というのは、そうやって、個人に全体への奉仕を要求する発想ではないのですか? 繰り返しになりますが、私としては、国家権力は血液検査とガイガーカウンターで測れる世界のうちに留まるべきだと考えます。「ストレス」や「コミュニティ」といったものに安易に言及させるべきではないと思いますし、それらに言及した補償策をデザインさせるべきでもないと考えます。


http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20110626/1309076575


ストレスというのは、生理的な実体のある現象なんだ。神経系の興奮、血圧上昇など、まさに「血液検査とガイガーカウンターで測れる世界のうちに」ストレスという現象はあるわけ。
例えば長時間労働のストレスで脳血管障害や心臓発作になる確率が何倍になるから月間で何時間以上の残業をさせてはいけませんよ、という疫学的知見による労働法の決まりがあり、それに基づく労災認定基準がある。最近では、セクハラのストレス強度をいくつかの段階にわけて、こういうことをしたらこれくらいのストレス強度だというのが労災認定に関連しているようだ。


「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」は一向に構わないのだが、公権力がストレスについて一切介入しないことは、実にまずいことはわかるだろ?




さて、
ここで、AとBという二人の人物を想定してみよう。二人とも政府の責任による事故で、同額の財産、生活基盤などを失ったとする。そして二人とも移住をすることとなった。
違いは、「Aはコミュニティ喪失に深い悲しみをいだいているが、Bはコミュニティ崩壊を心底から快哉している」ということだけ、としておこう。


このAとBに、経済的な補償が同額支払われるべきなのは当然だね。
ところで
精神的な損害を賠償する慰謝料について、両者に差をつけるべきだと思うかい?


ここでBが「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」といって慰謝料の受け取りを拒否してくれれば話は早いのだが、「くさった田舎がぶっ壊れてサイコーの気分だけど、くれるものは貰っておく」と考える人物であることも十分にありえるし、それは別に責められるべきことでもない。
僕の立場であれば、AにもBにも同額の精神的な賠償(=慰謝料)を払うべしとなる。


別の例でもよい。交通事故で夫が死んだ。夫の年収や年齢などの外形的な条件は同じだとする。ただし一方の妻は夫を心から愛しており深い悲しみに沈んでいる、もう一方の妻は夫を殺したいほど憎んでいたので天にも昇る心持ちとしよう。
僕は、どちらの妻にも同額の補償がされるのがスジと思うが、君はどう考える?
夫が死んだことへの慰謝料なんてのは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーであってそんなものを公権力で認めるべきではない、とでも主張する?


君はどう考える?
郷土を失い移住を余儀なくされたことが、夫を交通事故で失ったことが、個々人のハピネスに悪影響を及ぼしているかどうか、どれくらいの影響を及ぼしているか、いちいち調査するのかね? 「私も非常に悲しく思っている」とAとBが異口同音にいえば、それでよしとするのかね? それとも二人とも嘘発見器にでもかける? 悲しみや幸福を数値化する装置でもつくるのかい?


ここで問題なのは、「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」という態度が、裁判所、保険屋、あるいは公権力による個々人の内心の調査に直接結びついてしまうことだというのはわかる?
君は、個々人の内心をいちいち考慮せよといっているが、それはつまり、公権力は個々人の内心を調べるべし、ということになるんだぜ。
そうじゃないというのなら、どういうことなのか教えていただきたい。


精神的な慰謝料ってやつにも【相場】というものがある。時代によっても変わるし、もちろんそのときそのときの価値観によっても変動するものだ。慰謝料と、社会の価値観が無関係だというつもりもない。価値観におけるマイノリティには不利なことも多いかもしれない。
しかしね
「一般的にこういう目にあうのは可哀想ですよね、だからこれくらい補償しましょう」
でいいんじゃないの?
いちいち公権力に内心を調べられるよりはるかにマシなんじゃないの?


「あんたたちの内心をいちいち確かめはしない。でも、こういう目的のために有効なこういう基準で補償するよ」という補償のあり方、つまり 社会がある基準をもって補償をすることは、別に個々人のハピネスやサッドネスを定義することにはならんのよ。
もし仮に一定の補償基準がなかったら、それこそいちいち個々人の内面をはかり、「はい、あんたは親が死んでも悲しくないと数値化されました。補償対象外ですね」などとやらなければならなくなるの。


「国家権力は血液検査とガイガーカウンターで測れる世界のうちに留まるべき」ってのは本当にソノトオリだと思うね。自由民主主義の公権力は健康・生命・財産といった基本的な価値を目標にするべきで、個々の付随的で対立の予想される価値を目標にするべきではない。
しかし、
個々の付随的な価値を【手段として】使うことが禁じられているわけではない。基本的な価値を実現するために一定の基準を示すことが禁じられているわけではないし、その基準が何らかの付随的な価値に沿っていてもかまわない。今回のフクシマ被災者は尋常でなく追い込まれているから、コミュニティという付随的な価値をとおして健康や生命といった基本的な価値を守ることがよいだろうと発言している。しかし、僕は一般的には社会保障はもっと個人主義的なほうが個々人の健康・財産を守るためには有効だろうとも思っている。


ところで、国家権力が「移住ストレス」という言葉を使うことは国家権力による共通善の定義に直結するのではないか、という(相当に極端な)私の主張について、なにか異論はありませんか?


異論というより、君が共通善のことや、公権力による内心への干渉について、ちゃんと考えたことがないんじゃないかと感想をもった。僕がどれだけ共通善や権力による内心への干渉を嫌っていて、【現実的に】それらをなるべく排除しようとしているか想像もしとらんのだろうなあ、と。君の理路では公権力が個々の内心をオーダーメイドで定義することになっちゃうんだぜ。
ちなみに、共通善については以前にエントリをあげている。共有されるべきは【悪】や【誤謬】(追記アリ - 地下生活者の手遊びで、自由主義では共通善を基盤にしてはならないことは明言しているよ。まあ、それにしても絶対ではない。例えば、ガキの幸福のために家族という価値に公権力がある程度コミットすることは妥当だろう。


まとめるぞ

  • 健康・生命・財産といった基本的な価値を守るために、付随的な諸価値(家族・コミュニティ・環境・経済効率など)に公権力がコミットすることは許される
  • 仮に、付随的な諸価値への公権力のコミットメントがいっさい否定された場合、支援や補償の基準づくりも不可能となり、それどころか公権力による内心の調査が必須となる

つまり

  • 「俺のハピネスを勝手に定義しないでほしい」は、加害者を利するだけでなく、個々のハピネスやサッドネスを公権力へ委託すること、になる。


「俺のハピネスは俺のハピネスだ、公権力が何を言おうが、誰がどう言おうが」と僕は考える。
公権力の役割は、少しでも多くの人の健康と財産を守ることなのだから、その目的のために有効であるのなら、「俺のハピネス」でない価値に公権力がコミットしても*1僕はぜんぜんかまわんよ。
ああ、もちろん、最大多数を幸福にするためだといっても、少数者の犠牲においてそれをなすことは絶対に承認しないけど。

*1:例えばスポーツ振興とかな

フクシマ被災者が移住を避けるべき4つの理由


では、前回記事の補足ですにゃー。前回記事と併せてお読みくださいにゃー。

ストレスが健康に及ぼす影響

ストレスは、内分泌系および神経系に大きな影響を与え、心疾患(特に虚血性心疾患、いわゆる心臓発作)や脳血管障害(脳出血脳梗塞など)の直接的な原因になりえますにゃ。また、当然に精神的な影響は大きく、うつ病などから自殺の要因になり、さらには暴力事件にも関係するってのは常識的見解にゃんね。そして、アルコールや薬物などの過剰摂取により間接的に精神的身体的健康に悪影響を与えるというのも誰でもわかるところですにゃ。

1980〜90年代のロシアなどの平均余命はなぜ下がったか

以上のことを理解していただいた上で、下のグラフを見てもらいましょうかにゃー。

}˜^¤ƒƒVƒA‚Ì•½‹ÏŽõ–½‚̐„ˆÚ より引用


チェルノブイリ事故が86年で、確かにその後、旧ソ連諸国の平均余命は低下しておりますにゃ。
ただし
チェルノブイリ放射線汚染がもっともひどかったとウクライナベラルーシではロシアほどの平均余命の落ち込みはにゃーですね。そして、ベラルーシの男女別の平均余命を見ると、♂の平均余命の落ち込みが激しいにゃー。放射線の被害に性別は特段に関係にゃーはずなので、どうもこの平均余命の落ち込みを放射線の被害と見做すのには疑問符がつきますにゃ。
平均余命の落ち込みをチェルノブイリ放射線の被害と考えると

  • 1)ベラルーシウクライナよりもロシアで平均余命がもっとも落ち込んでいることを説明できない
  • 2)ベラルーシで男性のほうが女性よりも顕著に平均余命が落ち込んでいることを説明できない

まあ、他にもいろいろと突込みどころはあるけど、それはリンク先でご確認くださいにゃー。


では、もうひとかたまりのグラフ群を見てもらいましょうかにゃ。なるべくリンク先を直接見てもらったほうが読みやすいと思いますにゃ。

http://ow.ly/i/bG2H/originalより引用

ロシアにおいては、♂の平均余命とアルコール消費量が見事に逆相関をしているのが見て取れますにゃ。
そして、死亡原因としては虚血性心疾患・脳血管障害・不慮の事故が顕著に増加し、他に増加しているのが自殺・他殺・その他暴力ですにゃ。他方で、白血病も固形癌も特に増加は見られにゃーですね*1


これらのグラフを見れば、旧ソ連諸国で1980年代の終わりから平均余命が下がったのは、ソ連邦崩壊による社会的なストレスが直接的あるいは間接的(飲酒などをとおして)に心疾患・脳血管障害・自殺・他殺・暴力事件を引き起こした結果であると考えるのが妥当なんでにゃーかな?*2チェルノブイリ事故の影響とは考えにくいんでにゃーの?*3
この【ソ連邦崩壊による社会的なストレスが健康悪化の原因】というモデルでなら、もっとも混乱のひどかったロシアでもっとも平均余命の落ち込みがひどいこと、♀に比べて♂の平均余命の落ち込みが顕著なこともばっちり説明可能ですにゃー。

放射線被曝の被害を否定しているわけではない

誤解してほしくにゃーのだが、チェルノブイリ事故の放射線被曝によって健康被害などありえにゃーと主張しているのではにゃーのだ。現地の医師などの体験による白血病やガンなどの増加という主張を否定するつもりはさらさらにゃー。放射線被曝は深刻な問題だと考えているし、だからこそ3.11以前にも原発に反対するブログ記事をあげているのだにゃ。
しかし
低線量の放射線による健康被害は、社会的なストレスによる直接あるいは間接的な健康被害とは比べものにならにゃーほど微妙だということは、どうみても明らかだろうと言っているのですにゃ。


100mSv/年の被曝で0.5%ガンの罹患率死亡率が増えるという広く承認されているモデルというのは、仮に10万人のうちで1000人ガンになるとして、その10万人が一年間で100mSvの被曝をすると、1005人がガンになるであろうガンで死亡するであろうというモデル。(←この記述はおかしすぎるので、「現在の日本では死亡原因の約4分の1がガンだといわれており、仮に25%ジャストがガンで死亡するとすると、ガンの死亡率が25.5%になるということ。」と差し替えます。不確実な記述申し訳なし。6/19 23:30ごろ)。そして、http://ganjoho.ncc.go.jp/professional/statistics/statistics.html を見てもらえば分かるけど、日本国内でも県別でのガンの死亡率は0.5%とは桁違いに大きな開きがありますにゃー。これは、低線量被曝よりも生活習慣などの他の要因によってガン発生率が左右されるであろうことをはっきりと示しておりますにゃ。


繰り返すよ。チェルノブイリ事故の放射線被曝の害がないともどうでもよいとも言うつもりはにゃーの。ICRP(国際放射線防護委員会)の報告が、原発擁護の側によっていてどうも信じがたいという理屈を認めて被害はもっと大きかったという前提に立ってもいいのだにゃ。
放射線被曝の健康リスクにおいて、どんなに悲観的なモデルをもってこようとも、それでも、ソ連邦崩壊という社会変動にともなうストレスの健康被害はあまりにも巨大であって、ストレスの健康被害と【比較すれば】、放射線被曝の健康被害は圧倒的に小さいだろうといっているのだにゃー。

中間まとめ

つまり、前回も引用した「チェルノブイリ事故の精神面への影響は生物学的なリスクに比べ非 常に大きかった」との91年国際原子力機関の報告は、【原発御用学者】のものであるとはとてもいえにゃーと思われますにゃ。
精確には、

  • チェルノブイリ事故とその処理の社会的・政治的な混乱により、精神的ストレスがもたらす健康への悪影響は、被曝による放射線医学的な悪影響よりもはるかに深刻であった


これは今の日本でも起こっていることなのではにゃーのかな?
それこそ、チェルノブイリに学ばなくてはならにゃーだろう。


また、これもしつこくいっておくけど、精神的なものがもたらす健康への悪影響も原発のリスクのひとつであり、政府・東電にはこれを軽減し補償する責任があることは言うまでもにゃー。


強制移住がどんなに大きなストレスを与えるかを考慮すれば、低線量被曝が予想される地域をそうそう簡単に居住不適当な地域にするのはまずいわけですにゃ。居住も選択できるようにせねばならず、そして居住者には社会的・心理的・経済的・医療的ケアをしなければならにゃーわけだ。
もちろん、どうしても住みたくにゃー人は出て行くしかにゃーですね。そうした人たちに対しても手厚く補償すること自体は当然だにゃー。


前回エントリには「原則居住」と書いたはずなんだけど、どうも僕が居住を強制しているかのような誤読をしていたヒトがブコメにもコメント欄にもいましたにゃ。居住か移住かは当人が決めることは自明として、行政側は居住にインセンティブをもたせるような施策をすべきというのが「原則居住」の意味にゃんね。
では、なぜ居住にインセンティブを持たせるべきかについて以下に説明しますにゃー。

ストレスをどう軽減するか

前回エントリのブコメで、
「移住もストレスだろうけど、残ってもストレスにさらされるだろ。残ったら放射線とストレスのダブルパンチじゃないの?」
という旨の意見をいくつかいただいていますにゃ。もっともな反論にゃんね。


ストレスに対処する過程はコーピング(coping)と呼ばれる。コーピングとはストレスに対してなされる認知的・行動的な努力のことである。


ストレスへのコーピングを支えるものとして考えられているのが、個人のもつ心理的・社会的資源である。具体的な資源としては、健康、知的能力、問題解決スキル、ソーシャルスキル、ポジティブな信念、物質的資源(お金)、ソーシャルサポートなどである。


なかでも、ソーシャルサポートが十分に得られるときに、個人はストレスフルな状況にもっともよく対処しうる。十分にソーシャルサポートが受けられるというのは、支援的な対人関係に恵まれ、いろいろな物質的・心理的援助が得られるということである。


培風館「心理臨床大事典」初版P47〜48 より引用者の責任で抜粋まとめ


コーピングとそれを支える資源という視点を導入させていただきますにゃー。
先程のロシア平均余命グラフで、♂がストレスに弱いということは明らかにゃんね。これはジェンダー論なんかも絡むだろうけど、一般に♂は♀よりもコーピングが下手だという話がありましてにゃ。♂はストレスに晒されるてもうまく対処できずに、酒量がふえて自滅すんのだにゃ。また、コーピングを支える資源、というのはアマルティア・センの潜在能力概念とだいぶ重なるところの大きいものに思えますにゃー。


さて
社会的な排除や差別ってのは、それ自体がストレスの大きな要因であるうえに、ストレスに対処するための資源の欠如でもあるという意味で実に大きな問題なのですにゃ。ストレス対処にとっては、社会的サポートが受けられにゃーってのは最悪なんですにゃー。


移住先に何らかのツテがあればまだいいけど、まったく知らぬ土地に放り出されたら、移住ストレスに対処するための最重要資源である社会的サポートがにゃーんだ。仮に移住先の自治体が最善の対処をしたとしても、社会的サポートのうちでも重要項目であるコミュニティはなかなか得られるものではにゃー。


そして
社会的サポートってのは行政だけがやるものでもにゃーんだな。


地縁・血縁といった原初的なコミュニティは、危機対処にあたって大きな役割を果たし得るし、同じように被害にあい同じように苦労した者どうしの連帯というのもあるだろうにゃ。ストレス対処とはちょいことなるけど、依存症からの脱却においても、同じ経験を共有している人たちのコミュニティというのは、大きな治療の成果をあげるということも知られていますにゃー。


コミュニティというと脊髄反射的に嫌う連中がいるけれど*4、本当に追い込まれてしまった人たちにとって、コミュニティは絶対不可欠なものだといえますにゃ。


あと、新しい環境に対するガキの適応力をあげるブコメがいくつかあったけど、ガキが適応力を持てるのは、家族コミュニティがしっかりと機能しているときなんでにゃーの?
ガキがストレスに強いとでも思ってんでしょうかにゃ?
無茶な移住で社会的サポートがなく、家族コミュニティがなかなか機能しにゃー状態で、しかも放射線被害デマの典型たるフクシマ出身者差別すらあるこの状況で、ガキの適応力を期待するというのかにゃ? 無茶だろ。


いかにして長期的な補償をさせるか

前回エントリコメ欄で、以下の指摘をいただきましたにゃ。


protein_crystal_boy 2011/05/31 22:37
水俣病とか公害裁判でも判るようにさぁ、
国や原因企業は責任を認めようとしない傾向が強いでしょ。
規制値を緩めちゃうと
健康被害に関して国は因果関係を認めない方向に行くのじゃない?
それに居住地を失うことに対して賠償を要求する根拠になるのは
規制値を超えちゃったっていうことでしょ?
規制値を維持した上で移住などによる健康被害
国や原因企業に徹底的に補償させる方が良いと思うよ。


これは確かにひとつの考え方だとは思いますにゃ。他にも、移住してちゃんと補償しろというブコメはありましたにゃー。
ただし、
この考え方だと、低線量で規制を行うことになり、その低線量での規制地帯で居住する人たちが【自己責任】ということになっちまわにゃーかと心配。どちらを選ぶにせよ、補償されなければならにゃーからね。
そして、やはり移住のほうが健康被害はでかいと考えられるわけで、なるべく健康被害が最初から少にゃーほうがいいと思いますにゃー。


また、
【徹底的な補償】というけれど、移住して全国に分散してしまって、行政や企業に徹底的に補償させるような社会的・政治的な存在感を保つことができるかってのはかなり疑問にゃんよ。
正直なところ、移住にともなう補償というのは、基本的に一時的なものであり、どう長くとも数年から長くとも十年程度であり、それ以降の補償ってのはムツカシイのでは?
今の日本のこの閉塞的な状況で、カネなし・コネなしで知らない土地に放り出されて、仮に手厚い補償を得られたとして一時的なものにすぎにゃーだろうってのはどうなのよ、と思っちまいますにゃー。


都合のワリイことはなかったことにしたがるニッポン人と日本の権力にとって、目立たなくなるように全国各地に被災者が移住して、雀の涙ほどのカネをだして、あとはなかったことにする、ってのがベストのシナリオではにゃーだろうか。


水俣その他の公害訴訟においても、徹底的に粘り強く戦った地元の人たちがいたからこそ、それなりの補償を少しずつでも勝ちとってきましたにゃ。
これからフクシマで生まれるガキが、年をくって死ぬまでの長きにわたり、健康被害に関して行政と企業に継続的な補償をさせるためには、そこに住んで社会的・政治的に存在感を示し、発言し続けることが大切なのではにゃーだろうか?

まとめ、4つの理由

  • 1)チェルノブイリ事故後の旧ソ連の平均余命データ、死亡原因データなどからは、低線量放射線被曝の影響よりも、社会的ストレスの影響が圧倒的に大きいことがわかる。また、低線量被曝(100mSv)の発ガン率ガン死亡率上昇は都道府県別の発ガン率ガン死亡率の違いにも遠く及ばない。放射線被曝の健康被害そのものより、事故処理にかかわる社会的・精神的ストレスが健康に悪影響を及ぼしたという、チェルノブイリで見られた事象が、今この日本で起こっているのではないか?
  • 2)ストレスに対処(コーピング)するためには、社会的サポートが必須であり、行政の支援ももちろんだが、コミュニティの果たす役割は大きい。フクシマの地域コミュニティを崩壊させてはならない。
  • 3)ヒロシマナガサキの存命被爆者(つまり低線量被曝者。被爆当時は子供だったひとももちろん多数)は、かえって長命であるというデータも知られている。つまり、低線量被曝の健康への悪影響は、事後的な医療ケアで取り返すことができる。
  • 4)行政や企業に長期的な補償をさせるためには、居住して社会的・政治的存在感を示し続けるのが有効。移住の補償は一時的である可能性がおおきく、結局【なかったこと】にされるのでは?
  • 以上の論点より、なるべく居住が続けられるような施策が積極的になされるのがフクシマの被災者にとってより望ましいと考える。具体的内容案は前回エントリで述べた。
  • また、【 ガキをリスクに晒すこと】、および、【 疫学的手法を用いてこの事例を考えること】への反発がコメント欄やツイッターなどで見受けられた。これについても思うところを述べたいが、別稿で行うこととする。

*1:一応いっておくと、小児がんというのはもともと件数が少ないので増えたとしても平均余命に影響を及ぼすことは考えにくい。まして、小児甲状腺がんについては死亡例も少ないはず。また、この統計はいわゆる原発利権とは無関係なWHOの統計であることにも注意。

*2:死亡原因として大きな不慮の事故も、社会の崩壊に伴うものと考えられる

*3:まあ、チェルノブイリ事故はソ連邦崩壊の直接的な引き金のひとつではあるから、その意味ではチェルノブイリ事故の影響といえんことはない

*4:前回エントリへの、id:harutabeのコメントが典型。コミュニティは抑圧的に働きうるし、ろくでもない権力主義者がコミュニティを錦の御旗に掲げることが多いなんてのは前提。しかし、追い込まれた者にとっての最後の頼みの綱であることもまた事実。 僕だって地縁コミュニティなんてうざってえしできれば関わりたくないが、それは僕が相対的に強者であるからにすぎない。 単純で浅薄なコミュニティ否定は、実は強者の論理だ。

放射線被曝よりもはるかに重大なこと


放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。

その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかも知れないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラスもある。そこで、有害さとひきかえに、有利さを得るバランスを考えて、【どこまで有害さをがまんするかの量】が、許容量というものである。


つまり許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。


岩波新書「安全性の考え方」*1武谷三男編 P123  引用者が適時改段


ICRP(国際放射線防護委員会)では、当初は放射線被曝と健康リスクについては、閾値があるという立場だったのだけど、次第に武谷をはじめとする日本の核物理学者の提唱した閾値なし仮説(LNT仮説)を採用するようになってまいりましたにゃ。
この閾値ありなしの仮説について知りたい向きは、2011-04-01をご確認くださいにゃー。


とりあえずここでは「放射線は微量であっても人体に悪い影響を与えうるが、それは利益とのバランスで考えられるべき」という前提で話をすすめますにゃー*2

許容量(=規制値)とは社会的な概念

ここで重要なのは、放射線(に限らず、化学物質などへの暴露についてもいえるだろうが)の許容量とは社会的な概念であるということですにゃん*3。「許容量とは自然科学的な概念ではなく、社会的なものである」ということは、許容量のことを考えるにあたって、決してはずしてはならにゃーだろう。
許容量は社会的概念であるので、例えば原発で働く労働者や、病院のレントゲン技師などは許容量が一般人より大きめに設定されているわけですにゃ。放射線を取り扱う職業につくことで利益を得ているわけだから、がまんできる不利益の大きさもでかくなるということですにゃー。
というわけで

  • 職業被曝規制値50mSv/年 公衆被曝規制値1mSv/年

という現行法の設定になっているわけですにゃ(現行法では公衆被曝の規制値はないとコメ欄にて指摘をうけました。6/1 15:45ごろ追記)。
職業という利益と引換に、公衆被曝のにゃんと50倍の被曝が認められているわけですにゃー。


しかし、いくら利益と引換だからといって、何の条件もなしに50倍もの被曝が認められているわけではにゃーのだ。

低線量被曝と労災

大量の放射線を被曝した場合ならともかく、低線量の被曝が健康に及ぼす影響については、それがあくまで確率的なものであることも重要なことですにゃー。
公式見解である閾値なし仮説においては、放射線被曝の量が増えるほどガンなどのリスクが確率的に増大するわけですにゃ。そして、いったんガンなどになっても、それが放射線被曝が原因であるかどうかはわからにゃーわけだ。この【確率的】ってえのがクセモノにゃんねえ。低線量被曝をしていても、それが原因でガンになったかどうかの因果関係がわかんにゃーのは困りモノ。
だから、例えば労災認定において、一定量放射線被曝をしていたことが判明すれば、それが原因でガンなり白血病になったと【みなす】という判断をしておりますにゃ。


つまり、職業的な放射線被曝においては、被曝量が管理され数値化されている(ことになっている)上に、一定量放射線被曝をした方がガンなどになった場合は職業的な被曝によるものと【みなされ】、労災と認定されて手厚く補償される(ことになっている)わけにゃんな。


さらに、放射線を扱う労働者については、法令*4で教育訓練や6ヶ月にいちどの健康診断が義務付けられていますにゃー。


また、そもそも放射線を扱う職業についたのは、あくまで本人の自由意志によるものだというところもヒッジョーに重要ですにゃ*5

中間まとめ

というわけで、職業的な放射線被曝の許容量(=規制値)が、一般公衆の50倍にも設定されている理由は

  • 1)自由意志に基づき放射線を取り扱っている
  • 2)放射線被曝とひきかえに一定の利益をえている
  • 3)教育訓練・健康診断・発症時の補償などが確立されている


許容量がもともと社会的な概念であることを考慮すると、労働法の考え方を適用することには妥当性があり、上記3点をクリアできれば公衆の放射線被曝許容量を引き上げることもありえるのではにゃーでしょうか。


さて、では今回のフクシマ原発事故にともない、妊婦や子供*6なども含めた放射線被曝の許容量(=規制値)引き上げが、この3点をクリアできるかどうかを以下に考えてみますにゃー。

1)フクシマ事故の避難民は自由意志で被曝したか?

こりゃ無理だろ。むりむりウンコ。
まず誘致に関与してにゃー周辺自治体の住民には意志を示す機会すらなかったにゃ。
次に、原発を誘致した自治体においても反対した住民もいたわけで、連帯責任を言い出したらそれは自由意志ではにゃー。
もちろん、ガキどもにとっては意志を示しようがにゃーし、だいたい1970年代に誘致したヒトタチはもう年寄り世代。
そもそも、積極的に誘致した当時のヒトタチだって、「低線量だけど被曝してもらいます」と言われていたら誘致しているってことはにゃーだろう。


フクシマ住民の責任を問う論調を一部に見るけど、ちょっちスジが悪すぎるにゃー。

2)フクシマ事故の避難民は利益をえていたか?

誘致自治体だけでなく、福島県にもそれ相応のカネが落ちていたことは事実にゃんね。
しかし
それを言い始めると、潤沢な電力供給で利益を本当に得ていたのは誰か? という話にもなってくるんだよにゃー。福島県民が利益を得ていたにせよ、利益を得ていたのは彼らだけではにゃーし、リスク負担が実に偏ったシロモノになっていたのは否定のしようもにゃーだろう。

3)フクシマ避難民への補償は十分か?

これについては、これからの政府、東電、あるいは司法の判断なんかを見なければなんともいえにゃーですね。
まあ、十数万人の生活を破壊して、どれだけ補償ができるかってこと自体が問題にゃんが。

では、フクシマでの規制値引上げはダメなのね?

1)自由意志で被曝、はウンコが漏れるくらい無理筋もいいところだし、2)引換に利益ってのも公平性に問題オオアリだし、3)補償の確立ってのも疑問、と考えると、フクシマでの規制値20mSv/年ってのは無理に思えますにゃ・・・・
・・・・とはならにゃーんだ。


実は、ここまでの考察ではすっぽりと抜け落ちた材料がありましてにゃー。

規制値引上げを撤回したらどうなる?

例えば学校校庭での20mSv/年という規制値引上げを撤回して、公衆被曝規制値の1mSv/年にもどしたとしましょうにゃ。
そしたらもう、その学校のグラウンドは使えにゃーよね。土をひっくり返したりいろいろやれば、それなりに放射線量を低くできるかもしれにゃーが、1mSv/年にもどすことはここ数十年は無理なんでにゃーかな。
それどころか
そもそもフクシマの多くの地域(それどころか福島県近隣の多くの地域も)は居住区域として認められなくなるってことになりますにゃー。
これは何を意味するか?
移住にゃんね。


「そのとおり。移住すればよい。行政なり東電が移住の費用などをしっかり補償すればよいのだ」
という声も聞こえてきそうですにゃー。
しかし、それでいいのか?

健康を損なう大きな要因は何か

まあ、つべこべ言わずに以下にリンクした文書を読んでもらおうかにゃ。健康というものに興味がある向きには、つまりこの駄文をわざわざ読んでいるヒトタチ全てにとって必読と断言しますにゃ。


僕はドシロウトであるがゆえ、個々の研究を評価する力量がにゃーので、世界保健機構が編纂し、「この冊子が元とする根拠は何千という膨大な量の調査報告書から来ている。中には前向き調査で、何十年も何万という多くの人々を、それも生まれたときから追跡したものもある。また横断的調査法を用い、個々の人、地域、国内外のデータを研究したものもある」「各分野の定評ある多くの専門家の貢献によってこの冊子発行が可能になった」とうたい、原題で「solid facts」とまで言い切ったこの総花的な小冊子を論拠にさせていただきますにゃー。
とにかく読め。


フクシマの避難民が強制移住させられた場合に特に関連すると思われる健康改善についての提言を、この冊子から拾って引用してみましょうかにゃ。


・学校、職場、その他の社会組織などにおける社会環境・安全対策は、物理的環境対策と同じくらい重要である。人々がそれぞれの組織の一員であるとの自覚を持ち、自らの存在価値を感じることができる社会は、人々が疎外され、無視され、使われていると感じる社会よりも健康水準が高い。(P13)


・行政は、福祉事業において、心配と不安定の原因になっている心理社会的ニーズと物質的ニーズの両方を満たす必要があることを認識すべきである。特に乳幼児を抱えた家庭へのサポート、地域活動の奨励、社会的孤立の解消、物質的・経済的な不安定の軽減、教育による健康への意識の改善、さまざまな社会復帰などの施策を推進していく必要がある。(P13)


・社会的・経済的な格差を縮小し社会的排除を減らすことで、社会的なきずなを深め、健康の水準を高める。(P23)


・学校、職場、より広範囲の地域社会における社会環境を改善することは、人々が日常生活のより多くの場面で自らの価値を認識し、自分が大切にされていることを感じるきっかけとなるでろう。こうしたことは、さらに人々の健康状態を良い方向へと向かわせ、特に精神面での健全化に大きく貢献するであろう。(P23)


・地域社会で会合や社会的な活動をもてる場を設けるようにすることで、精神面での健全化が図られるだろう(P23)


社会的な活動や地域社会が、いかに健康と密接に関連しているかはこの記述だけでもわかるし、PDF冊子を見ればこれらが死亡率や病気への罹患率、寿命にまで影響をあたえるほど健康へ大きな関与があることがわかるはずですにゃ。
強制移住は、これら健康の基板基盤となるものをいったんご破算にしてしまうのだにゃ。移住者には健康への顕著な悪影響がでて、おそらく寿命にまで影響が及ぶのではにゃーだろうか。

低線量放射線被曝の健康への影響は?

ところが、低線量(50〜100mSv/年以下)の放射線被曝が健康にあたえる影響ってのは確定してにゃーんだな。 少なくとも統計的にはっきりと検出できるレベルでの悪影響ってのはわかんにゃーようだ。
チェルノブイリ事故についても、


・小児の甲状腺癌を除いて事故後に癌の罹患率が上昇したことを示す強力なエビデンスはない


チェルノブイリの事故の健康への影響については一致した見解は得られていない。UNSCEARは08年に、小児の甲状腺癌の6000例超はチェルノブイリ の事故に関連付けられると結論したが、他の癌については事故との関連を示す明確なエビデンスはないと報告している。一方、民間団体のグリーンピースは、事 故に起因する過剰な癌罹患者は9万3000例を超えるだろうとの予想を示している。


http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/hotnews/lancet/201105/519693.html


との見解がランセット誌という世界で最も信用できる医学論文誌のひとつに載っているようですにゃ。つまり、低線量被曝が健康にどれくらい悪影響を与えているのかはわかんにゃーほど微妙だと。
社会的心理的なストレスなどが健康に影響をおよぼすことが明白になっていることとは対照的にゃんね。


さらに


原子力事故の心理的負荷は見逃されがちだが、実は国際原子力機関IAEA)は91年に、チェルノブイリ事故の精神面への影響は生物学的なリスクに比べ非 常に大きかったとの結論を公表している。国連のチェルノブイリフォーラムも、事故の最大の影響は住民の精神的健康面に認められ、放射性物質曝露が健康にも たらすリスクに関する情報が適切に提供されなかったことによって被害はさらに深刻になったと述べている。


http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/hotnews/lancet/201105/519693.html


と、チェルノブイリ事故においても放射線被曝より精神面での影響、先程のWHO冊子でいえば社会的な影響で健康リスクが大きくなったことが指摘されていますにゃー。


つまりだ、
ある程度の放射線線量の地域、ぶっちゃけいま騒がれている20mSv/年の地域を基準にすると、移住のほうがかえって健康リスクが高い、それもケタ違いに高いということになるんじゃにゃーの?

責任をどうとらせるか

話を最初の方にもどしますにゃー。
現実には移住かそこに住み続けるかの2択ですにゃ。規制値引上げをいっさい認めにゃーのなら移住しかにゃーし、暫定的に規制値引上げを認めるにしても、それはしばらく続くことになりますにゃ。そして、移住も居住も両方ともにリスクに晒されるけれど、極端に線量の多い地域以外なら、移住のリスクのほうが統計的には高くなると思われますにゃ。
だから

  • 居住を続けることは、移住に伴うリスクをなくす、という利益を得られる

ということになるんですにゃー。マイナスの回避は相対的には利益なのだにゃ。


もちろんこれは、労働者が自由意志において、しかも利益(プラスを得る)ために放射線被曝というマイナスを我慢したこととはだいぶ違いますにゃ。自由意志もクソもなく、利益といってもマイナス回避で放射線被曝をよぎなくされるのですからにゃ。


だからこそ、事後的な補償を徹底して行う必要があるといえるでしょうにゃー。
具体的には

  • 世界最高レベルの放射線被曝の研究、治療施設をフクシマにつくる
  • 地元住民はすべて数十年は無料で、その施設で検査・治療を受けることができる
  • 社会的影響のもとで起こると考えられる疾病なども無料で治療を受けられる
  • 放射線や社会的影響が健康に及ぼす影響について、徹底して教育する


原則的にもともと暮らしていた町に居住しつつ、以上のような施策を行うことが、多分もっとも健康被害を少なく抑えることができるのではにゃーだろうか? 長期間の低線量被曝が健康に及ぼす影響は、事後的・確率的にしかわかんにゃーので、とにかく補償するしかにゃーんだよな。また、ストレスなどからくる疾患なども原発のリスクと考えるべきだしにゃー。


もちろん、この費用は行政なり東電なりに全額負担していただくにゃ。
放射線量を低減していく責任も、もちろん行政や東電にありますにゃ。
費用の負担者を明確にすることによって、放射線量をどれくらい減らすためにどれくらいのコストをかけ、それがどれくらい住民の健康に影響するか、をシビアに考えていただくことになりますにゃー。

まとめ

最初に【許容量(=規制値)とは社会的概念である】と引用しましたにゃ。規制値が社会的な概念であり、そして人間の具体的な生活や健康をもっとも重視するのであれば、原則として居住を続けながら徹底して補償するのがもっとも被害を抑える方法であろうと思われますにゃ。
そしてまた、これがもっともしっかりと行政や東電に責任を取らせるやり方なのではにゃーかと思う次第。移住ということになれば、逆に行政や東電の責任がウヤムヤになるのではにゃーだろうか?
さらにいえば、今後は原発依存の地域経済からの脱却も図っていかなければならにゃーでしょうね。

おまけ1

原発擁護のお話にならにゃー世迷言も聞こえてくるけど、特に放射線被曝関連でどうしようもにゃーデマが【反原発】のヒトから発信されてるのも残念ながら事実にゃんね。

そういう反原発派に対して【子供を守れという思考停止】という言い方がされているのが僕には気になっていましてにゃ。大人がガキを守るのはアタリマエなので、子供を守れ、が思考停止になるわけにゃーだろ。
こう言ってやれよ。

  • デマにまどわされて子供を守れるのか?

おまけ2

WHO冊子のような考え方をする学問を【社会疫学】といいますにゃ。冊子を読んで興味を持った向きは、以下の書籍がオススメ。オモチロイよ。

不平等が健康を損なう

不平等が健康を損なう

多分、21世紀以降の先進国において、最大の健康リスクは社会格差に関連したものになっていくのではにゃーだろうか。その証拠はちゃくちゃくと積み立てられ、そうそう後退していくこともにゃーと確信する。
経済学とも連動して、実効的な社会保障政策の基盤ともなっていくでしょうにゃ。
というか、そういう方向に持っていかなければならにゃーんだけどな。

*1:1967年刊ですでに絶版

*2:低線量放射線被曝の健康リスクに仮に閾値があるとしても、閾値まで被曝すること自体にメリットはにゃーわけで、武谷のいう「許容量とは利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念」という認識の妥当性にについてはゆらぐものではにゃーけれどね。あと、放射線ホルミシス効果(=少しの放射線は健康にいいよ仮説)はここでは却下ということで

*3:同書の結論部にも許容量は「社会科学的概念」との記述もある P220

*4:労働安全衛生法放射線障害防止法など

*5:女は風俗、男は原発: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) のような現実もあるので、この「自由意志」というのには忸怩とするところもあるんだけど、まあそのあたりはとりあえずはおいとく

*6:妊婦については、職業被曝であっても10mSv/年が規制値。ICRP勧告(1990)では2mSv/妊娠期間、となる。無論だが子供には職業被曝ということ自体がありえない